ドルショック以後、スミソニアン体制が確立し一ドル=三〇八円で固定化された。しかし、この体制は変動相場制移行への最後の抵抗に過ぎなかった。昭和四十八年になるとドル不安が再燃し各国は相次いでフロート制へ移行した。わが国も二月に変動相場制へ移行した。これにより一ドル=三百円台の時代は終わりを告げ、円高時代が始まった(図3―27参照)。比較的輸出依存度の高い浜松の三大産業は、大きな影響を受けることになった。なかでも繊維業界はオイルショックによる打撃と円高不況が重なり不況が構造化していった。この時期の不況の原因は、円高のなかで東南アジア、韓国、中国産の安い輸入綿製品が激増するとともに政府の総需要抑制策によって国内需要が落ち込んだためである。別珍・コール天は製品の五割を輸出し、広幅織物は三割が輸出向けであった。そのため円高が強く影響し、受注は減少、工賃の値下がりなどによって操業短縮に追い込まれる企業が激増した。繊維業界は円高基調の中で次第に輸出競争力を失っていったのである。
図3-27 円の対ドル相場の推移
一方、オートバイ産業は、円が一円上がれば数億円の被害が出ると言われており、事実、三大メーカー(本田技研工業・鈴木自動車・ヤマハ発動機)とも円高によって利益を減少させた。さらに強い影響を受けたのは、大手メーカーの下請企業で円高に伴ってコストダウンを要請され、ほとんど利益の出ない状態が続いた。同様の事態は楽器業界でも見られ、大手二大メーカー(日本楽器・河合楽器)は利益を減少させていった。
【貿易黒字 貿易摩擦問題】
しかし、昭和五十三、四年になると円相場は安定し、徐々に円安傾向が続いた。その過程でわが国は貿易黒字を増やしていった。本来、変動相場制のメリットは各国の通貨価値が変動することによって貿易アンバランスを調整するところにあると言われていた。従って、貿易黒字国の日本は、変動相場制へ移行することによって円高傾向になり、それによって輸出にブレーキがかかり黒字幅が減少すると期待されていた。しかし、わが国の貿易黒字が期待されたほど減少しなかった背景にはアメリカの「双子の赤字」問題があった。当時長期不況に陥っていたアメリカはその脱出策として大幅な減税を行った。減税による財政の穴埋めとして国債の大量発行を行ったが、この国債を購入したのは海外の資金であった。なぜなら、アメリカは国民の貯蓄率が低く国内の遊休資金が少なかったからである。そのためアメリカの国債を購入したのは日本やヨーロッパの投資家や金融機関で、その結果として外国為替市場においてドル買いが起こり、ドル高となった。これにより海外からの輸入がますます増え、貿易赤字を累積したのである。すなわち財政赤字と貿易赤字の連動によるドル高問題であった。特に日本とアメリカの間では激しい貿易摩擦問題を引き起こした。大幅な減税によるアメリカ国民の所得増加は日本製の車や家電製品への購入に向けられた。そのため、わが国の対米貿易黒字が増え、深刻な貿易摩擦問題に発展していったのである。
【三大産業】
昭和五十年代の中頃になると浜松の三大産業も輸出を拡大させていった。昭和五十五年、浜松地方の輸出総額は六千九百三十二億八千万円と過去最高を記録し、前年に対して五十一・三%の大幅な増加となった。中でも二輪車・船外機・軽四輪・雪上車などの輸送機械は五千五百九十三億円で全体の八割強を占めた。次いで電子オルガン・ピアノを中心とした楽器が六百二十六億円、繊維製品が二百七十六億円、一般機械が百六十五億円となった。輸出先を見ると北米地域が第一位で全体の三十四%を占め、次いでヨーロッパ地域が二十五・八%、東南アジア地域が十二・五%の順になった。このように輸出が拡大していった背景には、何といっても為替相場の安定と円安傾向があった。なお、オイルショック以降の世界的な省エネムードの中で日本製の車に対する需要が高まったのは低燃費で経済的であるといった特徴が支持されたものと言われた。
オイルショックと変動相場制への移行による円高によって一時的に打撃を受けた地域経済も、昭和五十年代中頃になると、輸送機械を中心とした輸出の拡大により息を吹き返し、再び浜松は成長地域に転じていった。