[二度の石油危機と省エネ・省資源へ]

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【第一次石油危機】
 昭和四十八年十月六日第四次中東戦争が勃発すると、これを契機にサウジアラビアやイラクなどの産油国は石油供給の削減や原油価格の大幅な値上げを狙った石油戦略を打ち出し、第一次石油危機が起こった。そのため原油価格は高騰し、輸入価格は前年平均で一バーレル当たり二・六ドルであったものが昭和四十九年には十一・五ドルに達し、実に約四倍の上昇であった。
 
【第二次石油危機】
 戦後の産業発展の中で海外への資源依存度を強めてきたわが国は、石油依存度が実に九十九・七%に達していた。その結果、原油価格の高騰によって受けた打撃は大きかった。「産業の米」と言われた原油の高騰はガソリン・灯油といった石油関連商品の値上げにとどまらず、トイレットペーパーや洗剤などの家庭用品にまで及んだ。石油ショックを契機に企業による便乗値上げや売り惜しみが横行、他方、消費者も買いだめ、買い急ぎに走り、これらの行動が重なり狂乱物価状態を引き起こした。これに対し政府はインフレを抑えるために総需要抑制政策をとり、また、日銀は金融引き締め政策によって通貨供給の抑制を行った。この結果、昭和五十年代に入ると物価は沈静化し始めた。
 さらに、イラン革命に端を発した第二次石油危機(昭和五十四年)では卸売物価の高騰を引き起こした。急激な原油価格の高騰は卸売物価を押し上げたものの、消費者物価は一桁台の上昇に踏みとどまり、第一次石油ショックの時のような狂乱物価の二の舞は避けられた(表3―7参照)。これは政府・日銀による早め早めの物価対策と企業による減量経営への転換が行われたためであった。第一次石油ショックから多くの教訓を学んでいた政府や企業は比較的冷静に対応できたため、第二次石油ショックを乗り越えることが出来た。
 
表3-7 第一次・第二次石油危機前後の物価・労働生産性・実質GDP (単位:%)
消費者物価
卸売物価
労働生産性
 (製造業)
実質GDP
昭和48年
11.7
15.8
17.5
8.8
49年
24.5
31.4
-0.5
-1.2
50年
11.8
3
-3.9
2.4
53年
3.8
-2.5
8
5.1
54年
3.8
7.3
12.1
5.6
55年
8
17.8
9.2
4.2
出典:経済企画庁物価局資料

 
【軽薄短小型産業】
 この二つの石油ショックは、わが国の産業構造の在り方を大きく変えた。高度成長を主導してきた鉄鋼・造船・石油化学といった重厚長大型産業から、自動車・電化製品・コンピュータといった軽薄短小型産業への移行である。
 
【価格の高騰】
 石油危機は産業都市・浜松にも大きな影響を与えた。浜松商工会議所が昭和四十八年十二月に実施したアンケート調査によると、多くの業界で「原材料確保の困難」「価格の高騰」といった影響を受けていることが浮き彫りにされた。繊維産業では化合繊原料などの石油製品やパルプなどが不足し、操業が低下した。染色業では染料などの原材料の不足により、生産減はもとより操業が不安定になった。このため織布業では生産計画の見直し、週休二日制の採用、エネルギーの効率利用や節電といった対応をとる企業が増えていった。楽器木工業でも塗料、接着剤、プラスチック類などの原料不足に見舞われ、操業短縮と生産数量の削減をせざるを得なかった。また、オートバイの下請業界では、材料の薄板、樹脂の入荷が遅れ、価格も高騰し、生産のダウンを招いた。鋳造業界でも材料の銑鉄やコークスが不足し、生産コストが上昇した。このため、下請業界では親企業に対して材料の支給や部品価格の引き上げを求めた。また、親企業の生産計画に従って操業短縮や週休二日制を採用する下請企業も増えていった(『新編史料編六』 五産業 史料6)。 
 他方、市民生活も混乱した。ガソリンや灯油といった石油製品だけでなく、洗剤、トイレットペーパー、食料品などの値段までが急騰し、物によっては店頭から消えるといった事態が生まれた。さらに、消費者協会、消費者苦情相談窓口、消費生活センターには「あるお店では上得意の客にしか洗剤を売らない」「あるスーパーでは一万円分のレシートを持っていくと二百五十円の洗剤を売る」といった苦情が殺到した。このようなパニック状態に対して静岡県は物資対策本部を設置し、物価の安定確保、物資の円滑供給、物資の売り惜しみや買い占めの禁止などの対策を打ち出した。その後、政府、日銀による厳しい引き締め政策によって、この異常な混乱は徐々に沈静化していった。