わが国の金融は日本型金融システムと言われるように日本特有のものであった。その第一の特徴は間接金融中心と言われ、企業の資金調達が銀行からの借入金に依存していた。従って、銀行も一般大衆の高い貯蓄率(二十%前後)を前提に零細な預金をかき集め、それを企業へ投資資金として供給していた。第二の特徴は、メインバンク制と呼ばれ、銀行と企業は長期的かつ安定的な取引関係を維持していた。この安定的な関係は株の相互持ち合いによって支えられていた。第三の特徴は、銀行・証券・保険といった金融業務に垣根が設けられ、銀行業務、証券業務、保険業務には業際規制が存在した。第四の特徴は、規制金利という言葉に代表されるように、政府・日銀による強い規制や監督が存在していた。
【多店舗展開 預金獲得競争】
こうした枠組みの中で、銀行は企業の旺盛な資金需要に対応するために多店舗展開を行った。昭和五十年代初めの頃、浜松市には静岡銀行の二十二店舗を中心に都市銀行、信託銀行、地方銀行、相互銀行、信用金庫の店舗が七十カ所、それに商工中金、国民金融公庫といった政府系の金融機関が二カ所存在した。大和、富士、協和、三和、東海、太陽神戸、第一勧銀といった大手銀行と三菱、安田、中央の各信託銀行は市の中心部に浜松支店を開設しているのに対し、地銀、相銀、信金は中心部と郊外に広がった住宅地に各支店を広げていった。特に静岡銀行と浜松信用金庫、遠州信用金庫は預金獲得のために激しいシェア争いを行った。地域的には高台地区での競争が激しく、静岡銀行、清水銀行、駿河銀行、静岡相互銀行、中部相互銀行、浜松信用金庫の各支店を合わせて九店舗が乱立し、同地区における預金獲得競争が白熱した。
【高金利商品】
銀行間競争の激化の背景には、オイルショック以降の国債の大量発行に伴う高金利商品の登場があった。証券会社は、国債の大量発行をきっかけに国債の運用益を購入者に還元する中期国債ファンドを開発した。このファンドは、銀行の定期預金と同じ意味を持ち、かつ高金利商品であったため、銀行から証券への資金シフトが起きた。これに誘発され信託銀行は利回りの高い新型の貸付信託「ビッグ」、長期信用銀行は利付金融債「ワイド」を相次いで開発した。さらに、相互銀行も市場金利連動型預金(MMC)を開発した。このような高利回り金融商品の開発ラッシュが預金獲得競争激化の背景にあった。さらに、この動きは、その後の金融市場の国際化・自由化といった金融改革への道を開いていったのである。