【バブル経済】
昭和六十年代に起きたバブル経済、すなわち資産インフレ現象は、その背景に過剰資金の存在があった。カネ余りを引き起こすにはいくつかの原因があった。第一の原因は、昭和六十年のプラザ合意以降の急激な円高に対する円高不況対策にあった。当時、輸出によって支えられていた日本経済にとって、急激な円高は不況を招くものと懸念されていた。そこで日銀、政策当局は、昭和六十一年一月から同六十二年二月までの間に公定歩合を五回も引き下げ、史上最低の二・五%の超低金利状態を平成元年五月まで維持した。他方、急激な円高対策として日銀は、それまでのドル売り=円買いを一転させ、ドル買い=円売りの単独介入を行った。その介入額は昭和六十一年~同六十三年の三年間で、円に換算して八兆円規模に達した。超低金利と過剰な円資金の供給はバブル経済を引き起こす一因となっていった。なぜなら、このような状況下にあって全国の銀行は薄利多売に走り、貸し出しを積極的に拡大していったからである。
カネ余りを生み出した第二の原因はインパクトローンの急増であった。インパクトローンとは日本の銀行が海外にある支店からドルを借り入れ、これを国内の企業などに貸し付けるというものである。このようにして調達されたインパクトローンは、昭和六十一年には九兆八千七百三十七億円、同六十二年には八兆四千七百七十三億円に達した。インパクトローンを可能にしたのは昭和五十九年から進展した金融の自由化・国際化であった。金融の自由化・国際化は日米貿易摩擦問題の中でアメリカが強く要求したもので、アメリカは日米間の貿易インバランスを日本の金融市場が閉鎖的であるため十分な円買い需要が起こらず、ドル高・円安状態が続くと主張した。これにより、わが国は昭和五十九年日米円ドル委員会において金融の自由化・国際化を受け入れることになった。この金融の自由化・国際化の中でインパクトローンを可能にした措置は①実需原則の撤廃と②円転換規制の撤廃であった。従来、外国為替の先物取引は輸出・輸入といった実需に制限されていた。この実需原則の撤廃により、実需に関係なく先物為替取引が可能になったのである。また、円転換規制の撤廃は量的に制限なく外貨を円に転換することが可能になった。このような自由化がインパクトローンを拡大させたのである。