[駅前再開発と地価の高騰]

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【地価高騰】
 バブル経済の下での低金利とカネ余りは、過剰資金を土地資産や金融資産へ向かわせた。平成二年当初、バブルのピーク時に、日本の土地の時価はアメリカの四倍あり、東京都二十三区だけで全米の地価を超える水準にあった。東京の住宅価格はサラリーマンの年収では到底手が届かず、年収の五倍で買える住宅は地方に行かないと手に入らないといった状況になった。バブルが始まった昭和六十一年七月からの一年間の全国の平均上昇率(基準地価)は九・七%になった。浜松市でも商業地では十三%の急騰ぶりを示した。特に地価の上昇が激しかったのは浜松駅周辺に集中し、千歳町のノマキ時計店前は三十五・二%の高騰、一方、名古屋国税局が昭和六十二年一月に公表した路線価では、鍛冶町通り南側のヤマタカ玩具店前は前年比二十八・六%の上昇を示した。公表される路線価に対して実勢価格は何倍かに跳ね上がり、モール街では一平方メートル当たり百八十一万円、鍛冶町通りでは一平方メートル当たり三百三万円との声もあった。浜松市における地価高騰はバブルによる要因だけでなく、駅周辺の再開発や都田地区を中心にしたテクノポリスなどの開発計画と重なって起きたものでもあった。浜松のように将来性のある地方都市の一等地の土地取引に東京の資金の流入が、地価の高騰に拍車を掛けたのである。
 浜松駅北口では大型ビルの建設ラッシュが起きた。浜松ショッピングプラザ、駅ビル、遠鉄百貨店、浜松名鉄ホテルなどが次々に建設され、県外からの資本も流入した。市内の商業地で特に値上がりが激しかったのは、このような開発が地価を刺激したためである。さらに、駅前の東街区整備、その北側に隣接する東地区土地区画整理事業などが加わり、地価高騰の要因になった。このような地価の高騰は市民生活や行政を圧迫した。昭和六十二年からスタートした東地区土地区画整理事業は、地価の値上がりによって浜松市の事業費が試算より大幅に増大することになった。市民生活においても、「固定資産税が上がり、税金が払えなくなるから郊外へ出ていきたい」という市民の声が聞こえ始めた。駅前周辺の地価の高騰は徐々に外延的に広がり、住宅地の地価も上昇し始めた。同六十二年には蜆塚、広沢などの高級住宅地で一平方メートル当たり十五万円(基準地価)を突破した。そのほか、入野町や鹿谷町も五~六%の上昇を示し、舞阪町の住宅地は県下トップの上昇率を示した。このような地価の高騰に対して自治体レベルでは地価を抑制する決め手が少ないため、金融、税制、宅地供給、法的規制などあらゆる面からの国の対策が急務となった。