昭和三十年代後半から同四十年代中頃にかけて大手スーパーや百貨店の中心商店街への出店がブームになり、長崎屋、ニチイ、西武百貨店などが次々に鍛冶町やモール街に進出してきた。これが大型店出店攻勢の第一波であった。第二波は昭和四十年代後半から五十年代にかけて訪れた。市街地の外延的拡大とともに地元のスーパーマーケットや県外資本の大手スーパーが次々に郊外へ進出してきた。昭和五十一年当時、地元資本によるスーパーマーケットは市内全域にわたって出店していた(表3―8)。松菱百貨店の子会社である松菱商事は昭和四十六年四月に松菱マートを遠州浜に出店させ、さらに遠州鉄道は昭和四十八年十月に遠鉄ストアを設立し、スーパー部門に進出、同年十一月に一号店を富塚町にオープンさせた。昭和四十八年九月には名古屋資本の大手スーパーのユニー浜松泉町ショッピングセンターが高台地区にオープンした。その後も名古屋資本の名鉄ストア、熱海に本社のある八百半などが次々に出店した。図3―28によると、昭和四十七年から同五十一年の五年間で店舗数は約二倍、売場面積は約一・五倍に増加した。その結果、同五十二年一月時点の売場面積千五百平方メートル以上の大型店は十二店舗、五百から千五百平方メートル未満の中小スーパーが三十八店舗になり、市内の小売業の総売場面積に対して大中小のスーパーの売場面積は三十四・一%を占め、県内第一位になった。特に、売場面積が千五百平方メートル未満の中小規模のスーパーが急増したのは、昭和四十九年三月から施行された大規模小売店舗法(以下、大店法)の存在があった。同法では店舗床面積が千五百平方メートル以上の店舗を規制対象にしており、それ未満の店舗面積は出店規制の対象外になったからである(昭和五十三年に、いわゆる第一次大店法改正が行われ、売場面積五百~千五百平方メートル未満も規制対象とした)。このため浜松では「ミニスーパー問題」として大きな問題となった。これらミニスーパーは大店法の規制のスレスレの売場面積を持ち、休業日数、閉店時刻などを規制することも出来ず野放し状態であった。売場面積が千五百平方メートル以上であれば、大店法に基づいて浜松商工会議所の浜松商業活動調整協議会(商調協)の調整対象になるため、地元商店街との話し合いの場を設けることが出来た。しかし、このミニスーパーに対しては、そのような対応が出来なかったのである。
表3-8 浜松市の地元スーパーマーケットの出店状況(昭和51年当時)
スーパーマーケット名 | 店名 |
スーパーいしはら | 泉町店、葵町店、日赤前店、新津店 |
松菱マート | 遠州浜店、住吉店、天竜川店、上島店、 丸塚店、南浅田店、領家店 |
遠鉄ストア | 向宿店、向平店、東田町店、篠ケ瀬店 |
サクラストア | 初生店、早出店 |
スーパーあかし | あかし店、本郷店 |
ゑびすやストアー | 葵店 |
スーパーコトウ | 湖東店 |
マルジュー | 遠州浜店、芳川店、高丘店、頭陀寺店 |
トウア | 曳馬店、住吉店、幸町店、中島店、 入野店、名残店、駅南店、萩町店 |
主婦の店 | 高林店、城北店、蜆塚店、富塚店 |
ファミリーストア55 | 鴨江店 |
組合マーケット | 三方原店 |
スーパーエイト | 竜禅寺店 |
注:売場面積300㎡以上。
注:萩町は現在の小豆餅近辺。
図3-28 大型小売店の推移
【地元の小売店】
このような郊外型のスーパーの出店攻勢は地元の小売店に様々な影響を与えた。もともと住宅地には魚屋、八百屋、肉屋、果物屋など、主として生鮮食料品を中心にした商店が自然発生的に存在していた。しかし、このような郊外型スーパーの出店は食料品や衣類品関係の小売店に大きな痛手を与えることになった。地元小売店の売り上げは大きく落ち込み、中には廃業や業種転換を図る小売店も出てきた。さらに、有楽街、鍛冶町、モール街といった中心商店街にも影響が出始め、中心街の通行量を減少させるといった事態が生まれてきた。スーパーが消費者から支持される理由には①品揃いが豊富、②商品の回転が速いため新鮮、③広告などで目玉商品が買える、④子供を連れてショッピングとレジャーを楽しめる、といった点にあった。その背景には消費者の買い物行動の変化があり、ワンストップ・ショッピングに魅力を感じる消費者が増えたためである。
郊外型スーパーの激戦地となったのが高台地区であった。この地区には、もともと地元のスーパーであるトウアやスーパーいしはらが出店していたが、昭和四十八年にユニー浜松泉町ショッピングセンターがオープンし、続いて八百半が進出、十二店舗もひしめき合うという激戦地になった。これに対して地元の商店会は連絡協議会を発足させ、対応策を検討することになった。さらに高台、和地山商店会は、地元商店会で組織されている浜松商店界連盟や竜西商店会連盟に働き掛け、浜松市商店会団体連絡協議会を組織することにした。同協議会は検討を重ね市議会や市当局に働き掛けることになった。昭和五十一年十二月、連絡協議会は中小規模のスーパー(千五百平方メートル未満)の出店についても事前調整が出来るように条例または指導要綱の制定を市に要望した。一方、市議会は、昭和五十二年三月に大規模小売店舗法の改正を求める意見書を採択し、担当大臣に提出した。その内容は、①出店に関する届け出の受理権限を県知事に委譲する、②一店当たりの基準面積を実状に即した適正規模に引き下げる、③売場面積を総量で規制する方針に基づき審査基準を設けるなどといった内容であった。