【浜松市中央卸売市場】
わが国の生鮮食料品の流通を秩序付けてきたのは、大正十二年(一九二三)に制定・公布された中央卸売市場法である。これにより公設の市場が各地に設置されていった。中央卸売市場法では「公正な価格の決定と取引の明朗化」と「価格と品質の安定」が求められ、公開のセリ売りが一般化していった。しかし、戦後の急激な経済成長に伴い、都市化の進展、生産地の大型化、小売業態の変化など生鮮食料品の流通を取り巻く環境が大きく変わってきた。特に、小売業態が大きく変化し、従来の魚屋、八百屋、肉屋といった小売店からスーパーマーケットが主流になり、スーパーによる生鮮食料品の大量買い付けが行われるようになった。そこで、このような変化に対応した制度の改善が求められ、昭和四十六年にこれまでの中央卸売市場法にかわって卸売市場法が制定され、七月に施行された。昭和四十七年二月、浜松市は国の中央卸売市場開設都市の指定を受け、開設準備を本格化させた。建設場所は二転三転したものの、最終的に飯田地区の新貝町(新貝・鶴見・下飯田・大塚の四町にまたがる)に決まり、同四十九年から二年がかりで農地の買収、家屋の移転が行われた。同五十二年十月から建物の建設に取り掛かり、総事業費約百億円の巨費が投じられ、昭和五十四年三月に完成した。施設の中心は青果と水産を合わせて約二万平方メートルの仲卸売場で、このほか水産物を貯蔵する冷蔵庫、各種倉庫、二千台収容の駐車場などが設けられた。浜松市中央卸売市場には、青果五社、水産三社を統廃合してつくられた卸売業者(青果部二社、水産部二社)のほか、仲卸業者(青果十二、水産十六)、関連事業所(七十八店舗)が入り、市場全体を市が管理することになった。一日の取扱量は青果六百トン、水産百六十トン、売り上げは一億五千万円を予定した。昭和五十四年三月三十日に開場式が行われ、初セリは鮮魚部門では四月二十七日から、青果部門では五月二十三日から始まった。これにより浜松市を中心に大井川以西の三十二市町村、約百万人の消費者へ生鮮食料品を供給することになった。