海外生産

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 変動相場制移行に伴う円高基調は地域の企業の国際化を進展させた。輸送機械、電気機器、楽器などの大手メーカーは市場確保のために世界的規模で展開、他方、中小企業も輸出、現地生産、国際下請取引など海外進出を強めた。この傾向は、昭和六十年以降の円高によって一層拡大していったため、地域内に広い裾野を広げる関連中小企業や下請企業などの取引にも大きな影響を与え始めた。地域の大手企業であるであるヤマハ発動機、日本楽器製造、河合楽器製作所、鈴木自動車工業が海外に設置した生産、販売ネットワークは昭和五十六年時点で五大陸すべてに至り、その拠点数も五百カ所を超える勢いになった。
 
【ヤマハ発動機】
 ヤマハ発動機は、従来から海外生産の意欲が強く、日本楽器製造の海外展開に相乗りした形で国際化を進めてきた。昭和三十年に日本楽器から独立、その三年後には日本楽器が設立したヤマハ・デ・メヒコに相乗りし、ピアノ生産と並んでオートバイの組み立てを行った。同社は昭和五十六年一月時点で海外に直営代理店など現地法人を十二カ国に十四社とノックダウン生産(KD生産とは日本で生産した製品の主要部品を輸出して、現地で組立・生産する方式)による工場を四十二カ国、四十三カ所保有している。また、海外のヤマハ発動機関連の会社で働く現地人は約一万人に達し、本社からの出向社員も常時百人を超え、名実ともに世界企業になった。昭和五十七年、ヤマハ発動機は西ドイツの大手二輪車メーカー・ニュールンベルガー・ヘラクレス・ベルケ社と二輪車に関する技術、販売業務提携を結びヨーロッパ市場の拡大を図った。
 
【鈴木自動車工業】
 鈴木自動車工業の海外進出は、昭和三十八年米国ロサンゼルスに直営販売会社U.S.スズキを設立したことに始まる。他方、KD生産は昭和三十六年に台湾向けに行われたのが最初で、同四十二年にはタイにKD工場を設立した。昭和五十五年段階では、直営販売店が六カ国に六社、KD工場は二十一カ国に二十八工場まで拡大した。その後、生産の現地化は中近東、南アフリカ、中米まで拡大していった。鈴木自動車の現地生産は「技術を提供し、ともに作り上げていく」ことを理念にしているため、出資金が五十%を超える現地法人は二カ所しか存在しない。
 昭和五十六年八月、鈴木自動車は世界最大の自動車メーカーであるゼネラル・モーターズ(GM)と資本・技術提携を結んだ。GMの狙いは、二度にわたる石油危機でガソリン価格が高騰し、燃費の良い小型車に世界の需要が多くなったことに対応して、鈴木自動車の経験と技術を生かすところにあった。一方、鈴木自動車側のメリットはGMと提携することによって海外市場を飛躍的に拡大することが出来るところにあった。さらに、昭和五十七年六月にはパキスタンの国営自動車公団(PACO)と四輪車生産合弁会社設立の契約を取り交わし、同じく六月、オーストリア最大の輸送機器メーカー・プッフ社と二輪車に関する技術、販売面での業務提携を締結、同年十月にはインド国営の自動車会社のマルチ・ウドヨグ社と四輪車の共同生産の契約を締結、次々に海外生産の拠点を拡大していった。
 
【日本楽器製造】
 日本楽器製造の海外系列会社は昭和五十六年一月時点で十七カ国に二十社設立されており、戦後初の現地法人は昭和三十三年メキシコで設立された。日本楽器の海外戦略の理念は「高品質の製品を作り、信用を重んずるビジネスを行い、音楽文化の普及に資する」というものであった。一方、河合楽器製作所は昭和五十六年一月時点で販売会社をヨーロッパと北アメリカに四社持っていたが、生産会社はなかった。
 
【浜松テレビ】
 産業都市・浜松において独特の発展をしてきた浜松テレビは、昭和五十年代半ばにはエレクトロニクス産業の主導的地位を確立し、国際的な企業として成長してきた。同社が開発してきた光電変換素子とその関連機器は物理測光、光情報処理、工業計測、レジャー機器、医療機器などの幅広く利用されてきた。昭和四十四年、同社は米国ニューヨーク州に現地法人ハママツコーポレーションを設立、本社製品のアメリカにおける販売拠点となった。また、ヨーロッパにおける販売拠点として昭和四十八年、西ドイツに合弁会社ハママツ・テレビジョン・ヨーロッパ・GmbHを設立している。浜松テレビの輸出比率(昭和五十五年九月)は三十八%で、年々拡大傾向にあり、そのうち米国向けが六十五%、西ヨーロッパ向けが二十五%、東南アジア向けが十%になっている。
 もともと輸出依存度の高かった浜松の地域産業は、昭和四十八年の変動相場制移行、さらに昭和六十年のプラザ合意による円高を契機に、現地生産や販売拠点の設立により、一層の国際化を進めていった。