浜松の工業発展の特徴の一つに「既存の工業が時代の変化とともに新たな工業を生み出す」という自己増殖力を持った継続的発展がある。この継続的発展には二つの流れがあり、一つは綿織物を軸にした繊維工業や繊維機械の流れと、木材の加工を軸にした木工機械や楽器の流れがある。綿織物は綿花栽培→紡績業→織布業→染色・整理業といった繊維工業を発展させ、遠州綿織物産地を形成するとともに繊維機械工業の成立を促した。もう一方の木材の加工は、製材業→木工刃物工業→木工機械工業や楽器工業→軍需工業→二輪車工業などを誕生させた。この自己増殖的な発展は、外から新たな工業を移植するのではなく、先行産業の中で蓄積されてきた生産技術が次世代の工業を生み出すという特徴を持っていた。例えば、繊維機械工業は木工技術を基礎に生まれ、織機が足踏織機や力織機へ変化する中で鋳物技術や金属加工技術を身に付け、さらにこれらの技術が土台になって工作機械や輸送機械を誕生させた。産業のライフサイクル論によれば「一つの産業が栄えている期間はたかだか三十年」と言われているが、浜松の産業発展の特徴には先行産業の中から次世代の産業を生み出す自己増殖力と時代の変化にフレキシブルに対応する展開力があり、これによって産業都市として百年以上も継続的に発展してきたと言える。
【テイボー ペン先】
このような発展の典型的な事例の一つとしてテイボーという会社がある。同社の社史『テイボー一〇一年史』によると、貿易商だった野澤卯之吉が初音合資会社を設立し、製帽事業を始めたのは明治二十八年(一八九五)であった。同二十九年にテイボーの前身である帝国製帽株式会社を設立、同年六月には東京にあった会社を浜松へ移転した。移転の経緯については社史に詳しい。その後、本格的に紳士用のフェルト帽子を製造、製帽会社として成長し、戦前、浜松の三大会社(日本楽器・日本形染・帝帽)と呼ばれていた。しかし、戦後になると帽子需要は大幅に減少していった。そこで、紳士向け中折れ帽の原料であるフェルトを加工して、マジックインキのフェルト製ペン先を試作、その後、改良を重ね昭和三十二年から量産化に踏み切った。同三十七年にはナイロンやアクリルの合繊ペン先を製造、さらに同四十三年にはプラスチックペン先の製造へ進出した。昭和四十年代の中頃になると、ペン先は全生産額の三分の二を占めるようになり、そのまた三分の二以上を海外に輸出していた。その後、オイルショック後の不況の影響を受け、一時的にヘルメットや合繊ペン先の減産に追い込まれたものの、プラスチックペン先の伸びが高く、ますますペン先生産に集中していった。昭和四十九年にはフェルト帽子の製造中止、昭和六十年にはヘルメットの製造を中止し、ペン先専業メーカーに転身した。さらに平成六年からMIM(金属射出成形)部品の製造販売を行っている。これは金属部品の製造方法の一つで、プラスチック射出成形法と金属粉末冶金法を融合することによって生まれた複合技術で、微細・精密部品を製造するのに適した技術である。
テイボーの百年以上の歴史が物語っていることは、生産する商品が時代の変化に対応し、フェルト帽子→フェルト製ペン先→プラスチックペン先→MIMへ移りつつ継続的に発展してきたことである。さらに、注目すべきことは、転身する際、外から全く新しい技術や製品を持ってくるのではなく、先行技術の蓄積の中から、時代に合った新しい製品を生み出したことである。フェルトを加工する技術の中からペン先生産を生み出し、プラスチックペン先で蓄積されてきたプラスチック加工技術からMIMを生み出してきている。このテイボーの事例からモノづくりの発展がどのようなプロセスを経て生まれてくるかを学ぶことが出来る。