[プラザ合意と繊維産業]

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【プラザ合意 繊維産業】
 ドルショックとオイルショック以降、構造的不況業種に転落した繊維産業は、プラザ合意による急激な円高によって産業そのものの後退に拍車が掛かった。従来、輸出産業であった繊維産業が、プラザ合意を契機に大幅な輸入超過を記録し、同六十三年の一ドル=百二十円台の円高定着とともに繊維製品の輸入がさらに加速していった。大蔵省通関統計によると、昭和六十二年の原料を含めた繊維製品の輸入額は百億ドルを上回ったのに対して繊維製品輸出額は約六十二億ドルにとどまり、約四十億ドルの輸入超過になった。プラザ合意による円高は、わが国の繊維産業の歴史的転換を招いた出来事となった。特に遠州産地においてショックを与えた出来事は、大手織物会社三社の撤退であった。昭和六十二年、織物業界の老舗で大量生産型の織布工場であったイクマ(明治二十三年創業)、西遠織布(大正八年創業)、広海紡織(昭和八年創業)の三社が相次いで撤退した。これらの企業は日清紡や敷島紡などの大手紡績会社の下請けとして平織りを中心に大量生産を行っていた。しかし、東南アジア諸国からの追い上げと円高による輸出競争力の低下によって撤退に追い込まれたのである。