従来、農業協同組合は単協(単位農協)・県連・全国連の連携の下に事業活動を推進してきたが、戦後の経済成長の下で農業や農村も大きく変貌してきた。農畜産物の全国流通が拡大する中で各地において産地化が進んでいった。浜松においても花き・メロン・ミカン・野菜などの産地化が進み、それら特産品の市場発言力や販売力を強化する必要が生じた。また、都市化や混住化が進み兼業農家が大幅に増え、農業依存度の異なる組合員からの多様なニーズに応える必要も出てきた。これらの変化に対応するために農協の広域合併によってコストの削減と迅速な事業対応が求められた。
【農協合併】
浜松市における農協合併は、昭和四十年六月、新津・浜松市神久呂・同入野・篠原・可美村・雄踏町の六農協による浜松西農業協同組合の発足によって始まった。この農協は正組合員四千六百十五名、準組合員千三百四十一名、貯金高二十八億二千五百万円を擁する県下有数の大農協になった。合併による規模拡大は流通機能を強化したり、経営の合理化を進めたり、法人信用の拡大にとって大きな効果があった。昭和四十四年四月、市の東南部にある浜松市飯田・同芳川・同河輪・同五島・同白脇の五農協が合併し、浜松市南農業協同組合としてスタートした。組合員は四千百三十二名の規模で、浜松西農協に次ぐ大型合併であった。同年十月には浜松市富塚・同和地・伊佐見が合併し、浜松市伊和富農業協同組合を結成した。
【JAとぴあ浜松】
昭和四十七年四月、浜松市中央ブロックの浜松市和田・同蒲・同曳馬・積志の四農協が合併し、浜松市中央農業協同組合を発足させた。この農協の規模は正・準組合員合わせて五千二百十七名、貯金高が八十九億円になり、市内では浜松西農協に次ぐ大型農協になった。昭和四十七年十月には豊西・笠井・長上・中ノ町の四農協も合併し、浜松東農業協同組合を発足させた。これらに対して、浜松市高台・同三方原・同吉野・同都田・同庄内の各農協は平成七年の「JAとぴあ浜松」の発足まで独立した農協として運営された。
昭和六十三年八月、県農協中央会は、さらに合併を進めていくために県下の単位農協数を七十四から二十二とする農協広域合併構想を打ち出した。農協合併の狙いは①単位農協の規模拡大を図り、単位農協の自己完結能力を強化すること、②連合会の組織・事業の効率化を図ることであった。合併の基準を①正組合員数五千人以上、②地理的、経済的な類似、③人的交流の有無、④広域行政との関わりなどに置いた。この構想(二十二農協広域合併構想)によると、浜松は、現在ある十農協を合併させ三農協に集約するというものであった。しかし、浜松周辺での広域合併は、平成七年のJAとぴあ浜松の発足まで待たなければならなかった。