花き

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【浜松生花市場】
 昭和五十九年二月、花き園芸農家待望の浜松生花市場が湖東町に完成した。浜松市を中心とする県西部地方は全国でも有数の花き産地で、菊、バラ、カーネーションなどを栽培していたが、その拠点となるような市場がなかった。浜松生花市場が開設されたのは昭和二十一年で、市内の生花業者ら約三百人が参加して田町に店舗を開いた。その後、高林町に移転したが、取扱高の七割は地場物で占めるという典型的な産地市場としての歴史を歩んできた。湖東町への移転は、十五年先を見越した整備計画の一環で、東名浜松西インターから三百メートルの立地条件の良い場所に建設された。完成した生花市場は五千六百平方メートルの面積で、鉄骨製のセリ場には、セリ落とされた切り花が即座に配送できるようにベルトコンベヤーが設けられ、スピードアップが図られた。また、鉄骨二階建ての管理棟には浜松資材センターが開設され、アートフラワーや柳かご、セロハンなどの園芸資材が備えられた。昭和五十八年の年商は約十三億円で、菊、カーネーション、バラを主力として切り花が年商の九十%を占めているのが特徴である。浜松市内の花きの粗生産額は昭和六十三年現在で、菊は約二十九億円、フリージアが約二億五千万円、カーネーションが約一億六千万円であった(表3―18参照)。
 
表3-18 花きの粗生産額の推移 (単位:百万円)

フリージア
グラジオラス
都忘れ
カーネーション
昭和49年
1,232
160
78
62
-
55年
3,037
441

-
100
60年
2,486
400

-
83
63年
2,958
254


-
167
出典:『浜松市統計書』各年版より作成

 
【菊】
 浜松の菊栽培の中心は庄内・伊和富農協管内で、庄内地区では、昭和五十三年時点で生産者七百人前後で秋菊六十五ヘクタール、夏菊二十五ヘクタールを栽培した。この地区は花き生産が盛んで菊以外にも球根、花木、草花など三十二ヘクタールを栽培していた。他方、伊佐見・和地・富塚地区では、花き組合員が七百八十人で、多様な種類の花きを栽培、このうち菊の栽培面積は露地物が四十ヘクタール、施設物が十ヘクタールであった。
 
【ガーベラ ほおずき】
 庄内地区において、昭和四十三年からガーベラの栽培が始まったが、病気に弱いため生産が停滞していた。しかし昭和五十五、六年頃から花茎が大きく生育の旺盛なメリクロン苗のガーベラが導入されることによって生産者が増え、昭和六十二年度現在で、生産額は二億七千九百万円で、全国一位のシェアを誇っている。平成元年では生産農家は五十戸で、栽培面積は五百三十アールに拡大し、品種も六十種類に及んでいる。また、庄内ほおずきも全国生産の九十%以上のシェアを持ち、庄内ブランドを確立している。ほおずきの栽培は、昭和二十八年頃から行われていたが、当初は害虫被害により生産者も一時的に減少したものの、その後害虫対策が進み栽培農家は増えていった。昭和五十二年から農協の共販体制が確立し、市場評価も上がり、昭和六十三年には約百三十戸の農家で十五ヘクタールの作付けを行った。
 
【洋ラン】
 花き栽培の変わり種として、東京セロフアン紙浜松工場(早出町)が洋ラン栽培に乗り出したことがあった。同社はセロハン紙生産日本一を誇る会社であったが、第二次オイルショック以降、合成樹脂に押され会社経営が停滞傾向にあった。そこで余剰人員の活用のために昭和五十四年洋ラン栽培を思い付き、セロハンなどの製造工程で出る廃熱を利用、工場内の一角に温室を設置してコチョウラン、デンファレ、シンビジウム、カトレアなどの栽培を開始した。温室は同社が開発したポリビニール系のホープシートを使って設置し、セロハン製造の加熱源である蒸気を再利用し、室温を二十~二十五度に保った。重油を大量に使用する生産者に比べると生産コストを半減させることが出来た。