[農業後継者の不足]

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【農業後継者】
 戦後、農業を支える後継者は減少の一途をたどってきた。特に浜松では地域工業の急速な発展に伴い、他産業への就労機会が多いことや、宅地や工業用地への転用による農地の減少などによって、農業の後継者が減少し、深刻な後継者問題を引き起こした。天竜川以西の二十五歳以下の就農者は、昭和四十九年から減る一方であった。同四十九年には四百八十三人もいた後継者が、同五十三年には三百五十一人になり、初めて四百人の大台を割った。同五十六年には二百八十八人と、ついに二百人台まで減少した。就農者の減少の要因として①都市化の進行とともに、農村における混住化が拡大し、それに伴って規模の拡大が出来ない、②他産業との所得格差の拡大などが挙げられる。
 戦後の農業労働力の農外流出には、いくつかの特徴が見られる。第一は、戦前のように若年時に農外へ出るものの、再び農業へ戻るという回帰型流出ではなく、一度、農外へ流出すると農業へは戻らない経過型流出である。第二に、高度成長期の工業部門の労働力の吸収は若年層が中心であったため、その時期に吸収されなかった、または、農外へ就労しなかった農業者は世代交代なしに農業を続けた。つまり、戦後の農業を支えた農業者は昭和一桁生まれが多かった。そのため農業労働力の高齢化が進んでいったのである。
 このような農業労働力の不足を補う手段として、庄内農業協同組合は「実年後継者の会」を発足させ、労働力の確保に当たった。庄内農協管内の農家数は昭和六十一年時点では約九百三十戸あり、菊、フリージアなどの花き栽培やパセリ、ミカンなどを生産する労働集約型農業を営む農家が多かった。そのため後継者不足は深刻な問題になるとともに、農業従事者の四割が六十歳以上と高齢化が進み、農家戸数も減少傾向にあった。そこで、農家出身のサラリーマンで定年後、農業へ従事する就農者を増やす対策をとった。昭和六十一年に結成された実年後継者の会には四十歳から六十五歳の後継者十六人が集まった。サラリーマン時代の職業も国鉄職員、税務署員、一般会社員、自衛隊員など様々であったが、後継者不足の中で重要な働き手となっていった。