西部衛生工場

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【西部衛生工場 浜名漁業協同組合】
 浜松市が昭和四十九年度から伊左地町と湖東町の六万八千平方メートルの用地に総事業費約五十二億円を投じて建設を計画したし尿処理場(西部衛生工場)に対して地元の浜名漁業協同組合は反対運動を展開した。その計画では、一日最大四百トンのし尿を処理する計画で、三次まで高度処理された排水約六千三百トンを伊佐地川から浜名湖へ放流するというものであった。市側の主張は「四十八万市民のために、下水処理は必要不可欠である」というものであった。これに対して、地元の漁民は「生活の場である海を奪う権利は誰にもない」として反対運動を起こした。本格的な反対運動は、昭和五十二年十二月、カキ漁民が静岡地方裁判所浜松支部に対して、浜松市長を相手取り「衛生工場建設差し止め仮処分申請」を起こしたところから始まった。その後、市と浜名漁協との話し合いは十数回にわたって持たれた。地裁浜松支部での和解交渉、県漁連仲介による話し合いなどを繰り返したものの、歩み寄る余地がなく難航した。しかし、地裁浜松支部は、同五十三年八月に「シ尿処理場からの排水により、カキ養殖に被害が出るがい然性は高いものの被害の種類、程度、市の被害防止に対する姿勢などから、受忍限度内のものである」とし、漁民の申請を却下した。これに伴い浜松市は、同五十三年八月から建設に着手した。一方、カキ養殖業者は東京高裁に抗告した。また、浜名漁協も昭和五十三年九月に市を相手取り地裁浜松支部へ提訴し、漁民と市の対立は抜き差しならないものとなっていった。昭和五十五年十月、衛生工場がほぼ完成し試運転を行うことになった。これに対し建設反対の浜名漁協は、組合員漁船百二十一隻を動員、工場排水が放流される浜名湖庄内湾で大規模な湖上デモを行い、試運転開始に抗議した。
 暗礁に乗り上げたこの問題が和解の方向へ転換した契機は、同五十六年六月に開催された浜名漁協の総会において「訴訟を続けながら浜松市と話し合う」という方針の議決であった。このような方向転換の背景には①西部衛生工場が既に稼働していること、②三年以上も裁判が長期化し訴訟費用がかかるといった現実問題が漁民の間に出始めたためであった。しかし、漁民の「浜名湖をこれ以上汚したくない」という意志による反対運動は、環境面に十分に配慮した処理施設を市側に作らせる結果となった。事実、同工場からの放流水はBOD(生物化学的酸素要求量)などの規制値を大幅に下回り、より厳しいメーカー保証水質もクリアしたのである。さらに、県に浜名湖の水質環境管理計画を策定させるきっかけにもなった。
 昭和五十七年一月、地裁浜松支部は和解案を提示した。その和解案は①放流水の水質はBOD五PPM以下の厳守、②この保証値を超えた場合は運転を中止する、③漁獲被害が出た場合は誠意を持って補償に応ずる、などといった内容であった。浜松市と浜名漁協は共にこの和解案を受け入れ、同年三月十三日浜名漁業組合長と市長の間で調書に署名が行われ、正式に和解が成立した。「生活・環境権優先か」「公共性優先か」で三年半にわたって争われてきた浜名湖環境訴訟はついにピリオドが打たれた。