東海道本線高架化事業

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【伊場遺跡】
 昭和四十七年二月八日に市民の宿願であった東海道本線高架化事業が、同年二月十日には高架化に伴う浜松駅周辺整備事業が決定した。計画によれば、高架化工事は昭和五十三年三月までに完了し、同年四月から高架線による運転を開始する予定であった。また、駅周辺の整備事業は同五十五年末の完了を目指していた。昭和四十七年三月から開始された約五万平方メートルの用地買収と三百十戸、約千人の移転も同五十年二月上旬までにほぼ完了した。また、懸案となっていた関連用地にある県指定史跡の伊場遺跡については、保存用地を確保し、史跡公園として整備する一方、伊場遺跡の出土品を展示する資料館を設ける等の条件で結論を見て、同四十八年十一月、史跡の指定が全面解除された。
 東海道本線高架化事業は、伊場遺跡の取り扱いをめぐる問題のため着工が遅れたものの、昭和四十八年十二月一日に、県と国鉄が高架化事業に関する工事協定に調印、翌四十九年二月二日には、竹山県知事、平山市長をはじめ国鉄、建設省、地元関係者約五百人が参加して、高架化事業の起工祝賀式が挙行された。工事は、貨物駅関係施設の西浜松駅への移転から開始された。
 高架化事業は、長年の懸案であった南北交通問題の円滑化、南北の均衡ある発展などを目指して進められた。同事業は、東海道本線の子安町─浜名郡可美村東若林間の五・三三キロメートルを高架(子安側一・五六キロメートル、可美村側〇・八一キロメートルを盛土に、中心部二・九六キロメートルを高架橋)にするもので、総工費は、昭和四十八年十二月の工事協定調印時点では約百六十億円と見積もられた。国、県、市、国鉄の負担割合は、順に六十%、十五%、十五%、十%であった。高架橋工事は、昭和五十年二月二十六日に大厳寺踏切の東で開始された。これに先立って、昭和四十九年十月から工事の支障になる国道一五〇号線から芳川までと、大厳寺踏切から終点の西浜松駅までの区間の線路を仮線に移動する工事が行われた。
 しかし、オイルショックの対応策としての総需要抑制策による公共事業削減のあおりを受けて、昭和四十九年度二十四%、昭和五十年度二十三%と計画予算が大幅に削減された。このため工事の遅れは必至となり、五十年末には一年前後の遅れと判断された。加えて、資材費の高騰により総事業費は二百二十六億円(四十%増)に増額された。
 
【高架化工事】
 昭和五十一年に入って高架化工事はようやく進展し始めた。前年の十一月でストップしていた高架橋工事が再開され、五十一年年八月には東起点付近の盛土工事が開始された。十月には西浜松駅の完成に伴う機関区、客貨車区の移転が、翌五十二年七月には仮線工事が完了した。

図3-32 新幹線と在来線の間に建設途中の高架橋

【不発弾】
 ただ、工事が本格化すると、現場から不発弾の発見(昭和五十一年十二月から五十二年十二月までに四回)が相次ぎ、工事遅延の原因となった。同五十二年末には、工事の遅れは当初計画よりも一年半と判断され、総事業費は約二百五十七億円(当初計画の六十%増)に修正された。とはいえ、その後の工事は順調に進み、五十四年八月までに浜松こ線橋部分を除いて線路や架線の敷設が完了した。また、新しい浜松駅も同年九月に落成した。この間、高架開通日は昭和五十四年十月十五日と決められた。
 
【浜松こ線橋】
 高架橋工事を進めていく過程で問題となったのは、国道二五七号線(旧国道一号線)が東海道線をまたいで成子町と森田町を結ぶ浜松こ線橋の取り壊しであった。浜松こ線橋は、一日約二万六千台の交通量があり、この交通量を確保しながら解体する必要があった。
 このため昭和五十三年一月十五日から四車線のこ線橋を二車線残して取り壊し、東側に仮こ線橋(二車線)を建設して同年五月から五十四年十月まで使用する。また、高架下に平面う回路工事を進める。高架橋の開通直前の約三十時間をかけて国道二五七号線を通行止めにし、仮こ線橋を取り壊し、その下の高架橋部分に線路・架線を敷設するという方法をとっていった。そして、高架開通後に四車線の計画路線を整備(同五十五年十一月開通)した(図3―33参照)。この間、道路の能力の低下を補うために市内を通過するだけの車両は国道一号線に流し、市内交通の車両は鴨江─倉松線から浜松─雄踏線、旭町─鴨江線などへのう回で処理することとした。

図3-33 浜松こ線橋工事予定図