[国鉄財政再建]

641 ~ 642 / 1229ページ
 国鉄の経営は新幹線の開通した昭和三十九年度に赤字を計上して以降、赤字決算を続けた。とりわけ石油危機を契機に大幅な赤字を計上するようになり、昭和五十年度からは単年度の赤字額が一兆円前後に達し、同五十八年度末には累積赤字が十兆円を超えた。
 
【国鉄財政再建】
 政府による国鉄の財政再建は、昭和四十四年五月の日本国有鉄道財政再建促進特別措置法(財政再建法)に基づいて取り組まれたが、十分な成果を得ることは出来なかった。昭和五十五年には第四次対策とも言うべき日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)を成立させ、赤字ローカル線の廃止や建設凍結、割増運賃の設定等を実施に移した。
 この間、モータリゼーションの進展もさることながら、頻繁な国鉄運賃の値上げや度重なる国鉄ストなどのために、乗車人員は減少した。まず国鉄運賃について見ると、浜松駅─静岡駅間の運賃は、昭和四十九年に三百二十円だったものが昭和五十二年に六百円となり、昭和六十一年までに八回の値上げが行われ、千百五十円となった。また浜松駅の乗客輸送人数は、昭和四十九年の約九百七十万人をピークに昭和五十七年には約八百五十八万人へ百万人以上減少した。浜松駅の乗客輸送人数が上昇に転ずるのは国鉄分割・民営化後のことである。また、国鉄貨物について見ると、市内の貨物取扱数が減少傾向を示す一方、貨物の取り扱いは、漸次西浜松駅に集約された。この結果、舞阪駅は昭和四十九年、浜松駅は五十一年、高塚駅は五十八年、天竜川駅は五十七年(専用線発着を除く)を最後に取り扱いが停止された。
 
【国鉄の分割・民営化】
 他方、昭和五十六年三月に設置された第二次臨時行政調査会は、五十七年七月の第三次答申で国鉄を含む三公社の分割・民営化を打ち出した。同年十一月に成立した中曽根内閣は、分割民営化を強力に推進した。その結果、昭和六十年四月、日本電信電話公社と日本専売公社が民営化された。国鉄については昭和五十八年六月に設置された国鉄再建監理委員会が分割・民営化の線に沿って審議を進め、昭和六十年七月に内閣総理大臣に「国鉄改革に関する意見」を提出した。これを受けて昭和六十一年九月に政府が臨時国会に提出した、いわゆる国鉄改革関連八法は、十一月二十八日に参議院本会議で可決・成立し、新会社発足に向けて本格的な準備が開始された。