【二俣線】
国鉄ローカル線は、モータリゼーションの進展によって輸送量が減少して採算が悪化し、国鉄財政赤字の一因となっていた。このため、政府は昭和五十五年の国鉄再建法に基づいて、同五十六年度には第一次として四十線、五十七年度は第二次三十三線、六十一年度は第三次十二線の三次にわたる廃止対象路線を発表した。この結果、大半の路線はバス輸送に転換されるか、第三セクターによって路線が継承されるなどした。
昭和五十七年十一月、東海道本線掛川駅と同新所原駅を結ぶ二俣線が第二次廃止対象路線の候補となった。同線の五十六年度の一日当たり乗客数は四千八百五十九人、営業係数七百三十四(百円の収入を得るために七百三十四円必要)という赤字路線であった。これより先の昭和五十六年六月以降、沿線の十三市町村による二俣線存続沿線市町村対策協議会による二俣線存続運動が繰り広げられたが、昭和五十九年六月に運輸省は同線の廃止を承認した。