翌五十五年十月三十日に、高架事業は西遠広域都市計画事業として建設省から認可された。同年十一月六日には事業主体の静岡県と浜松市、遠州鉄道の三者間に協定、覚書が結ばれた。こうして、予定より一年遅れの同年十二月十一日に遠州八幡駅付近から高架工事が開始された。これより先の五十六年二月、旧本社ビルにあった新浜松駅は遠州馬込駅寄りに百二十メートル移動した仮駅舎で営業を開始、旧本社ビルは解体された。
図3-36 高架工事
昭和五十九年二月には、新浜松駅─稲荷橋間、六間道路─柳通り間の高架工事がほぼ完成した。しかし、戦後復興土地区画整理事業の中央工区の換地処分の遅れ等により、一部区間の移転補償交渉や用地買収交渉が遅れた。同交渉については昭和五十九年三月末にようやく終了、未着工部分については同年四月から開始された。その結果、昭和六十年五月二十八日に早馬町の架橋が完了し、高架部分が全線接続した。
【高架化工事完成 高架開通記念式典】
昭和六十年十一月、新浜松駅舎が完成、そして同月二十五日には、当初予定より二年遅れ、着工から五年の歳月をかけて高架化工事が完成した。三十日まで検査・試運転等を行い、三十日午後九時から路線の切り替え作業に着手し、翌十二月一日の始発から電車が高架上を走った。同日十時三十分から新浜松駅高架下広場において静岡県知事や浜松市長ら約五百人が出席して高架開通記念式典が開催された。なお、高架事業の総工費は約百億円に達した。
図3-37 高架開通記念式典でのテープカット
高架化により西鹿島線の営業キロは八百メートル短縮されて十七・八キロメートルとなり、新浜松駅―西鹿島駅間の所要時間は三十六分となった。また、踏切二十一カ所が立体交差となり、交通渋滞や踏切事故の心配もなくなった。
一方、遠州馬込駅のスイッチバックは無くなり、遠州馬込駅は廃止された。また、第一通り駅を新設、遠鉄浜松駅、遠州八幡駅、遠州助信駅をそれぞれ遠州病院前駅、八幡駅、助信駅に駅名変更した。なお、市民の要望で新川上の高架下に駐車場の一部を残すことになった。
東海道線の高架化、遠鉄高架化の完成により、鉄道線による浜松市街地の分断が解消した。同時に、市街地の交通体系の整備と商業ゾーンとしての都市開発の基盤が形成された。遠鉄高架化を受けて、JR浜松駅、新浜松駅周辺には様々な大型商業施設が相次いで開業し、一層にぎわいを増した。