市営バスと遠鉄バスの乗合部門について、昭和四十八年度から市営バスの遠鉄バスへの移管(後述)が始まる前年の昭和五十八年度までの十一年間の営業キロ数(市営バスの場合は免許キロ数)、走行キロ数および輸送人員を見てみよう。
【輸送人員の減少】
営業(免許)キロ数は、市営バス約百キロメートル前後、遠鉄バス千キロメートル前後であり、五十年代前半まではほぼ横ばいであったが、五十年代後半には市営バスの場合は明らかな減少傾向を示した。一方、市営バスの乗合部門の走行キロ数は約三百六十万キロメートルから約二百三十四万キロメートルに減らしたのに対して、遠鉄バスのそれは約二千二百二十五万キロメートルから約二千三百三十一万キロメートルに増やした。これに対して輸送人員は、市営バスは昭和三十九年、遠鉄バスは昭和四十年をピークに、この期間も減少を続けた。市営バスの輸送人員は約千六百四十四万人から約八百九十八万人へ七百四十六万人の減少であった。また、遠鉄バスのそれは、約六千二百九十二万人から約五千百三十四万人へ千百五十八万人減少した。この間のバス離れは、輸送人員では両者合わせて約二千万人近かったことになる。とりわけ市営バスは、十一年間に約四十五%の乗客を失った。
【ワンマン化】
昭和四十年代から合理化の一環としてワンマン化や整理券方式の採用等が進められる一方、不採算路線の統廃合等が行われた。また、乗客サービスの向上を図って乗客を呼び戻そうという努力がなされた。ワンマン化については、市営バスは四十七年八月、遠鉄バスは、昭和五十年三月に完全ワンマン化を達成した。また、これに合わせて車両の冷暖房化が進められた。このほか、遠鉄バスでは、県下初のデマンドバスシステムの採用(昭和五十三年)やワイドドア車両の導入(同五十六年)などが行われた。
昭和四十年代の高速道路の整備と同四十九年三月の浜松西インターチェンジの開設に伴い、観光バスのデラックス化が進んだ。特に、遠鉄バスのバンビツアーは旅客の旅行形態の小口化・多様化に対応して新型バスを購入するとともに様々な企画を推し進めた。各地での博覧会の開催や五十八年の東京ディズニーランド開園、スキー人口の増加等がバンビツアーの躍進に貢献した。
【貸切部門】
この結果、同社の貸切部門の輸送人員は、昭和四十八年度の二百万人から昭和六十一年度には五百万人超へ増加、平成元年度には営業収入額で乗合部門を上回るまでになった。