昭和四十六年二月に、九市町が参加する浜松―御前崎海岸道建設促進期成同盟会が発足した。同期成同盟会は、国道一五〇号線の慢性的な渋滞の緩和、御前崎港の利用とその搬出ルートとしての浜松―御前崎海岸道の建設を目的としていた。とりわけ企業進出が目覚ましい天竜川東岸地域と浜松市を結ぶ掛塚橋の渋滞は深刻で、新たな長大橋(仮称新掛塚橋)の建設は悲願とされていた。
しかし、浜岡原発が着工した(昭和四十六年)ことで小笠郡大須賀町から榛原郡相良町まで国道一五〇号線バイパス(小笠バイパス、延長二十一・六キロメートル)が昭和四十八年三月に開通したこと、総需要抑制策による道路建設予算の削減、環境問題への配慮等もあり、昭和五十年代には浜松―御前崎海岸道計画は棚上げされたままであった。
諸事情を考慮して期成同盟会は、浜松─御前崎海岸道構想の修正を行い、継続的な運動を続けた。昭和五十七年度の計画では、福塚町の国道一号線を起点に磐田郡竜洋町、同福田町の海岸寄りを経て大須賀町までのバイパス(延長二十二キロメートル)を建設し、さらに大須賀町から榛原郡御前崎町までの小笠バイパスを現行の二車線から四車線にするということになっていた。また、この計画には新掛塚橋の架橋も含まれていた。
こうした同盟会の運動が実を結んで、昭和六十年七月、県はようやく新掛塚橋を含むバイパス建設を昭和六十一年度に着工する計画を明らかにした。それは、掛塚橋から一・五キロメートル下流に長さ八百九十メートル、二車線の新橋を有料道路として建設、合わせて浜松市側と竜洋町側にバイパスを建設するというものであった。
【遠州大橋】
新掛塚橋(愛称遠州大橋)は昭和六十二年七月に着工され、総事業費五十二億円、平成元年九月に完成し、同月二十七日に開通式が行われた。同月二十八日から供用が開始され、料金は普通車百円、大型車百五十円~三百五十円、軽車両等十円であった。
本来、掛塚橋をはじめとする国道一五〇号線の渋滞解消を目的としていたが、遠州大橋が有料であったことや計画されたバイパス全体の建設・整備がその後あまり進まなかったことなどのため、十分にその目的を達成したとは言い難かった。平成十三年十月にようやく浜松市福塚町から磐田市大中瀬まで(掛塚バイパス)が全通した。