国道一五二号線の浜松中心部と北遠を結ぶバイパスは、昭和四十三年度から着工され、下池川町から有玉南町の約四・六キロメートルが工事認可された。しかし、石油危機による工事費削減や船明ダム建設に伴う道路整備に事業費が集中し、工事は完成予定の昭和四十九年度末よりも大幅に遅れた。このため、昭和五十一年四月に開通した区間は下池川町から高林町までの二・一キロメートルのみであった。
その後、高林町─上島町間一・三キロメートルの工事が進められ、高林町地内の四百メートルは四車線、残り九百メートルは片側二車線の暫定開通であったが、昭和五十四年七月二日に開通した。同年、バイパスに架かる馬込大橋の建設が正式決定し、約四・六キロメートルのうちの上島町から有玉南町東名高速道路下までの区間一・三キロメートルの工事が開始された。この結果、昭和五十六年七月に馬込大橋(九十五メートル、暫定二車線)が完成、同年十二月二十五日には、上島町─有玉南町間が四車線で供用開始された。これにより国道一五二号線の交通混雑は大幅に緩和された。
市および期成同盟会は、引き続いて有玉南町から有玉北町の浜松環状線までの三・一キロメートルの事業決定と早期着工を要望した。
【和地バイパス】
舘山寺街道の和地郵便局東側すじかい橋交差点から和地西交差点までを南にう回、一部浜名湖上を通過する和地バイパス(延長一・二二キロメートル)の本格的工事が昭和四十八年に開始された(図3―41)。舘山寺街道の和地町地内は商店などが軒を並べ幅員は五メートルしかなく、大型車がすれ違うのもやっとで、観光シーズンには渋滞がひどかった。しかも同年三月には浜名湖大橋が完成、昭和四十九年三月には浜松西インターの開通が予定されていて、交通混雑は必至と見られていた。
昭和五十年の時点では陸上部分の約九百メートルが完成していたが、浜名湖の埋め立ての国の認可や軟弱地盤のため工事は遅れ、埋め立てと二本の橋が完成し、和地バイパスが開通したのは昭和五十四年七月二日であった。
図3-41 和地バイパス架橋工事図
【舘山寺街道バイパス】
しかし、舘山寺街道の渋滞問題は解消せず、昭和五十八年四月には動物園開園により交通量はさらに増加した。このため、浜松商工会議所は舘山寺街道のバイパスとなる都市計画道路植松和地線と舘山寺有料道路の浜松西インターまでの延長を再三要望した。
【安新町交差点】
国道一号線と国道一五二号線が交差する安新町交差点の交通渋滞を解消するため、一号線の上り線車両の右折車と浜松インター方面から一五二号線に流れる右折車の交差点への進入を高架とすることが計画された。このうち一号線の高架バイパス(総延長八百メートル、高架部分三百八十メートル、二車線)が、昭和四十八年十一月に着工され、同五十一年三月末に完成、四月六日から供用が開始された。また、浜松インターから一五二号線への高架橋は、工事が遅れ、同五十九年三月にようやく開通した。
市内の幹線道路はその大部分が市中心部から放射線状に延びている結果、市内を通過する車も中心市街地に向かって集中し、交通混雑の大きな原因となっていた。これらの問題を解決するため中環状線と市街地環状線の建設が計画された。
【中環状線】
中環状線は既に浜松西インター取り付け道路、すなわち都市計画道路坪井豊西線(その後、県道六五号・浜松環状線)として建設が進められ、昭和五十六年には伊佐地川付近から県道磐田細江線(姫街道)までと、浜松インターチェンジ付近から国道一号線までの一部区間は完成していた。これを受け継いで、当初計画通り、南は国道一号線に結ぶ一方、東は笠井町まで延長するとともに、同町から南下、東名高速道路浜松インターチェンジまでつなげる計画であった。全線幅員二十五メートル、四車線の道路で、中央分離帯、歩道の整備が計画され、遅々としながらも工事は進められていった。
【市街地環状線】
また、中心市街地の交通混雑の解消のために市街地環状線(幅員三十二メートルまたは四十メートル、四車線)が計画(図3―42)され、昭和五十六年度から一部用地の買収が開始された。計画ルートは、東は小池三島線、北は北島住吉線、西は馬込住吉線・亀山伊場線・森田米津線、そして南は三島篠原線を結ぶ延長約十六キロメートルであった。
図3-42 市街地環状線計画ルート