浜松市の世帯数は、戦後になって急速に増加し、昭和六十年(十六万五十一世帯)には昭和十五年(三万三千百世帯)と比べると、四十五年で約四・九倍になった。また、このような増加傾向と反比例するように、同時期の一世帯当たりの平均人員は五・三人から三・二人に減少していた。昭和六十年では、夫婦と独立前の子供から構成される核家族が次第に増えていったことがうかがえる。
さらに、この核家族化が市内の地域ごとにどのように進展していったのかを示すのが図3―44の市内の地域別世帯人員の分布図である。図3―44(右)を見ると、昭和四十五年には、旧市街と新興住宅の建設が盛んであった白脇・五島・萩丘・富塚・曳馬地区での核家族化の進展が考えられる。逆に周辺の農村地帯は一世帯の世帯人員は四人から五人、中でも湖東・都田地区は五人以上であった。ところが、昭和六十三年(図3―44左)には、一世帯の世帯人員が約四人の地域は庄内・伊佐見・笠井地区のみとなっていた。農村部といえども核家族化が進んでいったことが分かる。
図3-44 市内の地域別世帯人員の分布図
【少子化】
このような一世帯の平均人員の減少の要因は核家族化の進行だけでなく、出生数と出生率の変遷(図3―45)でも分かるように、昭和五十年から平成二年の十五年間に出生率が年間約十九人であったものが平成に入ると約十人に半減している。また、年間出生数も昭和五十年には約九千人であったが、同五十五年には約七千人に、さらに平成に入ると約六千人であり、十五年間で三分の二に減少している。このような少子化の急速な進行がこの時期に見られたことも要因の一つとして考えられる。
図3-45 出生数と出生率の変遷