[住宅と住宅団地の新しい動き]

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【住宅団地】
 終戦直後から昭和四十年代半ばまで、市民の衣食住のうち、衣食は足りても住居の不足は深刻であった。そこで、県や市などは、中田島団地(昭和三十二年着工)、鷺の宮団地(同三十六年着工)、遠州浜団地(同四十年着工)、湖東団地(同四十三年着工)、佐鳴湖団地(同四十六年着工)というように市の郊外に続々と大規模な住宅団地を建設した。入居者にとって通勤・通学や日常生活の不便を解消するため、市は道路の改良やバス路線の新設、さらに幼稚園・小学校・中学校の建設等を進め、公民館や体育館、公園の整備やショッピングセンターの配置も含め、総合的な都市開発を行ったのである。
 住宅需要の増加の要因は都市部への人口集中と世帯の細分化であった。また、この頃の住宅は一世帯当たりの室数・畳数、一人当たりの畳数とも石油危機を挟む五年間であったが、いずれも表3―24のように増加しており、当時住まいにゆとりが出てきたことがうかがえる。市民の住宅不足に改善が見られたことは、民間の建設戸数(専用住宅)が昭和四十六年度に約七千戸であったものが徐々に減少していき、同五十年度には約四千戸(専用住宅)に減少していることからも分かる。これは一部石油ショックにも影響を受けた。
 
表3-24 一世帯当たりの室数・畳数、一人当たりの畳数
昭和45年国勢調査
昭和50年国勢調査
  (20%抽出)
一世帯当たりの室数
3.9室
4.4室
一世帯当たりの畳数
22.7畳
26.1畳
一人当たりの畳数
5.8畳
7.1畳
出典:『広報はままつ』昭和52年3月5日号

 
【市営住宅】
 そこで、昭和五十年代以降は、昭和三十年代以前に作られた老朽化した木造平屋の市営住宅を鉄筋コンクリート四~五階建ての中高層住宅へ建て替えることや、お年寄りを含む世帯に向けた老人ペア住宅(『静岡新聞』昭和五十年五月十四日付)や高齢者向けの庭のある住宅作り、さらに心身障害者世帯向け住宅など、市営住宅も新たな需要に対応した工夫を凝らしていった。なお、建て替えに際して、住民から家賃据え置きや下水処理施設・駐車場の完備などの要求が出された(『静岡新聞』昭和五十年九月十七日付)。このうち、駐車場については昭和四十九年に完成した瞳ケ丘団地でも問題となり、緑地公園の予定地を利用して九十台分の駐車スペースを確保(市営住宅は百二十戸)した。同じ問題は先に作られた湖東団地でも起こっていた(『静岡新聞』昭和五十年五月七日付)。
 
【コミュニティづくり】
 大きな団地ではコミュニティづくりが欠かせないが、県営佐鳴湖団地では昭和四十八年からミニコミ紙を発行したり、納涼夏祭りや一斉清掃などの行事を立ち上げたり、駐車場の確保を相談したりして、自治会を中心に住民主導で新しいふるさとづくりに取り組んでいた(『静岡新聞』昭和五十年五月十二日付)。