[分譲マンションの建設と日照権]

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【分譲マンション】
 昭和四十六年に市内で最初の分譲マンションが幸町に建設された。完成時点で全て分譲できた。その後、セカンドハウス用も含め続々と分譲マンション建設が進んだが、いずれも売れ行きは好調であった。理由は、昭和四十年代後半、地価高騰の中で、一戸建て住宅の土地の確保が難しくなり、マンションの方が一戸建てよりも割安になったからであった(『静岡新聞』昭和四十八年三月一日付)。その後、市内でもマンションの建設ラッシュが続き、過当競争気味になっていった。
 
【日照権】
 このような中、昭和四十八年、和地山一丁目の地上七階のマンション建設に地元住民が冬季は約二十戸分の住宅が日照権を奪われると反対運動を展開した。これに対して業者側は六月に、日照権を奪う恐れのある高層部分(五~七階)の一部を削るという提案がなされ、問題が解決した(『静岡新聞』昭和四十八年六月二十九日付)。これらを受けて、市は同年九月に日照権紛争防止に向け、業者に建設確認申請を提出する前に計画公開を義務付け、独自に建築指導要領を作成した(『静岡新聞』同年九月三十日付)。しかし、その後も日照権に関わる問題は、昭和五十五年から五十六年にかけてのホテル・コンコルド浜松の建設や同五十七年のグランドホテル浜松の増築をはじめ、各地で続発するようになっていった。
 
【マンション】
 その後、石油ショックなどによりマンション人気は一時低迷したが、昭和五十七年度になると大型マンションの建設件数は前年度の二倍以上となった。これは、この頃建設費が比較的安定していたことと、遊休地を持つ地主が有効利用を図りたいと希望したためと見られた(『静岡新聞』昭和五十八年五月二十五日付)。一方、分譲住宅地は昭和五十年代前半では静岡県下の平均販売率は約五十五%、浜松市もほぼ同率と低迷していた。浜松市開発公社や県住宅供給公社が売り出した大人見町から古人見町にかけての瞳ケ丘団地の分譲地も販売が振るわず、昭和六十年には県住宅供給公社は浜松初の選択・自由設計方式の導入を始め、需要の低迷に歯止めをかけた(『静岡新聞』昭和六十年二月八日付)。