[スト権ストと労働運動の転機]

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【狂乱物価】
 昭和四十八年秋に発生した石油危機では、原油価格が最高で約四倍に上昇した。それまでは、物価が上がれば失業が減るという関係があったが、石油危機後、日本経済は不況とインフレが同時進行するスタグフレーションの時代に突入していった。消費者物価は、年末から翌年初めにかけて、二割ほど上昇し、狂乱物価と言われた状況となった。また、浜松公共職業安定所管内の求人数も昭和四十九年度は前年度の約三分の一に落ち込み、逆に求職者は約一倍半に増加した。有効求人倍率は昭和四十九年の三・六一倍に対して、五十年は一・一〇倍に急減している。こうしたことから、求職者の中に失業に追い込まれた中高年者が多数おり、彼らの再就職は著しく困難な事態となった。このような現象は全国各地で起こっていた。
 
【国民春闘路線】
 そこで、昭和四十九年、春闘共闘委員会は、未組織労働者・退職者・身体障害者など社会的弱者救済のため、初めて国民春闘路線を打ち出し、総評、中立労連を中心とする春闘共闘委員会は、大幅賃上げ、スト権奪還、弱者救済などを掲げてストライキ闘争を行った。企業に、三割程の賃上げを実現させ、政府に年金の物価スライドや障害者・難病患者への福祉拡大を実現させることが出来た。
 
【スト権スト】
 公務員は昭和二十三年七月のマッカーサー書簡に基づく政令二百一号公布によって労働基本権の内の団体交渉権と争議権=ストライキ権が奪われたままになっていた。総評系の公務員労組である全逓信労働組合は昭和三十三年にスト権奪還の闘争を始め、総評も同三十五年にスト権奪還への特別委員会を設置した。ILO(国際労働機関)の委員会で昭和四十六年に「公務員についても原則的にスト権を承認すべきである」という決議案が採択されて、政府も検討を迫られていた。昭和四十八年二月に公労協と公務員共闘はスト権奪還の半日ストを敢行し、翌年は春闘と絡めてスト権奪還ストを行った。昭和五十年五月にはスト権奪還などを掲げて公労協が春闘の決戦ストを敢行、これに対して五月から六月にかけての当局側の処分は従来の例から見ると緩やかなものであった。これは前年の十二月に発足した三木政権が「対話と協調」を掲げ、労働側とも対話する姿勢を示したことにもよる。昭和六十年六月長谷川労相は、衆院社会労働委員会で「スト―処分―スト」の悪循環を断ち切りたいと発言した。また、三木政権はスト権問題には前向きに取り組む姿勢を見せたが、これを見た公労協は十一月から十二月をスト権を奪還する好機と捉えた。しかし、三公社当局や三木内閣は現状ではスト権は認めないとの立場を示すようになり、対立は深まった。こうして、昭和五十年十一月二十六日から国鉄の国労と動労が新幹線を含むほぼ全ての列車をストップさせ、全逓や全電通などもストライキに入った。浜松駅や国鉄浜松工場でもストライキが行われた。このストに対して、政府は、紆(う)余(よ)曲折はあったが、最終的には違法ストには妥協しないで厳重に処置するという方針を貫くことになった。そこで、公労協は十二月三日、自主的にストを収束させた。
 このスト権ストは長期にわたって列車や郵便が止まったため、人々の生活に重大な影響を与えた。通勤や通学の足が奪われ、郵便の遅配や生鮮食料品の輸送もストップ、一部の高校は休校となり、観光地も客が来ないと悲鳴を上げた。ストが長引くにつれて多くの国民がスト権ストに反発するようになった。このような状況は市域だけでなく全国で見られた。