【隔週週休二日制 四週五休制】
週休二日制は、経済の高度成長期に好景気での人手不足に絡んで労働条件の改善を勤労者にアピールするため、大企業を中心に徐々に実施されつつあった。昭和四十三年に遠州鉄道の鉄道乗務員で実施され始めたが、完全実施は浜松地方では昭和四十六年、安藤電気鷲津工場が最初であった。翌年、本田技研工業浜松製作所、ヤマハ車体、ヤマハ発動機、三信工業、日本楽器製造などが採用し、同四十八年三月までに十二社が完全実施に踏み切った。労働者の健康管理や労働災害の防止のため、週休二日制による労働時間短縮は、労働組合や労働基準監督署にとって運動や行政指導の重点目標となっていた(『静岡新聞』昭和四十八年三月二十八日付)。人手不足が深刻になっていた昭和四十八年四月、遠州地方の全繊同盟加盟労組は、企業側に昭和五十一年中に完全週休二日制の実施を約束させ、それに向けて隔週週休二日制などを段階的に実施することになっていった。同労組加盟の企業は織物産業のわずか五%であったが、繊維労働者の全体の約三分の一を占めていた(『静岡新聞』昭和四十八年四月二十二日付)。昭和四十八年七月末現在の浜松商工会議所調べでは、同会議所に加盟していて従業員二十人以上の事業所(三百九十五社)の四十一%が週休二日制の実施(完全週休二日制八社、月三回四社、隔週三十五社、月二回三十社、月一回八十五社)に踏み切っていた(『静岡新聞』昭和四十八年十二月十二日付)。この週休二日制は、昭和四十八年末の石油危機による不況が深刻になってきた翌年二月の段階でも「県内企業でも普及急ピッチ」と報じられていた(『静岡新聞』昭和四十九年二月十二日付)。労働省は石油危機による生産力ダウンに対応して週休二日制を各事業所に呼び掛け、県内の各事業所はそれに応じ始めていた。不況であっても従業員の解雇は控えつつ労働時間を短縮させる方向での対応となり、具体的には週休二日制の実施をさらに進める方向で労使も協力していった。低成長と不況が続いていた昭和五十三年十月から浜松市は県下市町村では初めて職員の四週五休制(月一回の週休二日制)を試行した。企業だけでなく公務員も休んで当然という賛成の声や土曜の半日休みもままならない中小企業の多い浜松では反対する声もあったが、窓口業務は混乱なく実施されていた(『静岡新聞』昭和五十三年十月八日付)。
【完全週休二日制】
一方、県内の金融機関は平成元年二月から完全週休二日制の実施に踏み切った(『静岡新聞』平成元年一月二十四日付)が、県の行政機関が第二、第四の土曜日を休みとした(隔週週休二日制)のは平成元年五月から、また、浜松市の行政機関が第二、第四の土曜日を休みにしたのは平成二年四月からであった(『広報はままつ』平成二年三月二十日号)。