【定年制延長 六十歳定年】
経済の高度成長期、平均寿命が延び、元気な高齢者が増えていった。浜松市の六十五歳以上の人口は昭和五十年には総人口の約六・九%となり、高齢化社会(六十五歳以上の人口が総人口に占める割合が七%以上)に近づき、同六十年には約九・三%になった。昭和四十八年、好景気で労働力不足が深刻化する中、「老年層や身障者の働く場所を、これから考えていかなければ」と鈴木自動車の鈴木實治郎社長が語り、同社は老人、身障者の働きやすい作業所を構想していた(『静岡新聞』昭和四十八年六月十七日付)。これまで民間企業では五十五歳定年が主流を占めていたが、昭和四十九年の浜松商工会議所の調査では、五十五歳定年の企業が半数を割り、六十歳定年が三割を超え、定年制延長の動きが強まりつつあった(『静岡新聞』昭和四十九年三月十六日付)。昭和五十四年に大手鉄鋼業界の労使が六十歳定年で合意したのを契機に、六十歳定年(同五十六年度から段階的に実施)への流れが急速に広まった。昭和五十五年現在、浜松では遠労傘下の労働組合がある百十一事業場中三十九事業場が五十六歳以上、二十七事業場が六十歳あるいはそれ以上となった。ただ、男女間に開きがあり、男子は六十歳でも女子のほとんどは五十五歳であり、男女ともに六十歳定年制はごく少数であった。昭和五十六年の春闘で労働組合は定年制の延長にも取り組み、当面六十歳を目途に強力な運動をしていく方針を掲げていた(『浜松経済レポート』第386号)。しかし、企業側は、定年延長によって生じる人件費の増大というデメリットのため、延長に二の足を踏んでいる状況も見られた(『静岡新聞』昭和五十五年九月三日付)。
【浜松市高齢者無料職業紹介所】
定年が延長されても、その後の人生の長丁場をいかに乗り越えるかが大きな問題であった(『新編史料編六』 七社会 史料70)。そこで、元気な高齢者の雇用機会をいかに作るかが、行政の大きな課題となっていた。昭和四十八年九月、市は元城町(昭和五十年一月に鴨江町の社会福祉会館内に移転)の市役所別館に浜松市高齢者無料職業紹介所を開設した。それまで市には老人職業相談所があったが、職業安定所の下請け的な業務しか出来なかった。しかし、新設の紹介所は積極的に求人開拓なども出来るようになった。五十歳から七十五歳くらいまでの高齢者、大半は男性の相談者を想定していた(『静岡新聞』昭和四十八年九月三十日付)。当初は好景気を反映して求職・求人のいずれも多かったが、石油危機の後、求人は半減し採用取り消しも相次いでいた。不況になると真っ先に削減されるのが高齢者であった(『静岡新聞』昭和四十九年一月十六日付)。同紹介所を訪ねてくる高齢者の六割は、老後の小遣い稼ぎではなく、生活維持、生活補助が目的であったので、不況下での就職難の悩みは深刻であった。高齢者であっても車の免許や電気工事士等の資格があれば就職が有利に決まることが多くなっていた。そこで、高齢者の再就職をスムーズにするため、浜松公共職業安定所は小池町の浜松機械高等職業訓練校や初生町の浜松建設高等職業訓練校を利用して能力再開発訓練を実施していたが、そこへの希望者は年々増えていった(『静岡新聞』昭和五十三年四月七日、同年十月七日付)。