国連は性差別撤廃に世界的規模で取り組むために昭和五十年を国際婦人年とし、その後の十年間を女性の地位向上に向けた具体的な行動を各国、各団体に呼び掛けた。各団体でも様々な取り組みがなされ、国も昭和六十一年四月、採用に男女差を設けてはならない等を内容とした「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律」(男女雇用機会均等法)を施行した。静岡大学就職部での求人状況では、男子のみといった求人はほとんどなくなった(『静岡新聞』昭和六十一年十二月二十二日付)。また、待遇面での男女格差についても是正の動きが徐々に活発になっていった。県教委文化課が担当する市内の発掘調査の現場作業員の募集でも、昭和六十年度には日当が男性は約八千円であったが、女性は約六千円であった。それが、昭和六十一年度からは男女ともに約八千円に変更された。発掘現場では男性がやっていた力仕事にも女性が加わるようになり、女性がやっていた測量の仕事にも男性が加わるような変化が見られた現場もあった。当初は男女間で戸惑いがあったが、次第に定着していった。しかし、このような動きは、公共機関が関与する場合に限られていたようであり、民間では、募集広告に男女差を書かなくても、実際には男女の別を従来通り考えた上で、各企業が必要とする人材を採用していたところが多かった。また、県西部労政事務所管内で昭和五十四年度の中学校卒業者男女別モデル賃金の推移(図3―46)と平成元年度の男女別年齢別平均賃金(図3―47)を見ると、男女雇用機会均等法の施行の前も後も、男女間の賃金格差は減少していないことがうかがえた。同一労働であっても賃金格差は、同法の施行後も続いた。なお、図3―47は、正社員やパート労働などの様々な雇用形態のものを合算した総合的な数値である。
図3-46 昭和54年度の中学校卒業者 男女別モデル賃金の推移
図3-47 平成元年度の男女別年齢別平均賃金
【休暇制度改革】
しかし、女性が働きやすい環境を作っていく試みは、民間企業にも次第に広がっていった。特に好況が続いた昭和六十年代から平成初年には、優秀な女性労働者を確保するため、民間の大手企業の中で、出産・育児、病気治療など、核家族時代の社員の悩みに休暇制度の改革によって応えようとする企業が出てきた。その一例が佐藤町にあるカタログ販売大手のムトウグループであった。同グループは社員千百九十人のうち、三割が女性であり、女性が働きやすい職場作りを目指して、看護休職制度や育児休職制度、つわり休暇制度、有給休暇積立制度などを平成元年九月から実施した(『静岡新聞』平成元年九月二十二日付)。