[勤労青少年ホームと勤労青少年の生活の変化]

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【勤労青少年ホーム】
 福利厚生施設を十分に用意できなかった中小企業で働く青年男女(十五歳から二十五歳)の交流の場として、昭和三十九年に鹿谷町に出来た浜松市立勤労青少年ホームは、当初は集団就職によって浜松に来て、主に紡織、楽器、オートバイ等の工場で働いていた中学卒業者が利用者の大半を占めていた。そのため、平均年齢も十八、九歳と若かった。昭和四十年代半ばには利用者総数は約十二万人、同四十九年度でも約九万人、利用者として登録していた青年は約四千人を数えた。同年度にホームが募集した生活記録で三位に入った作文が『新編史料編六』 七社会 史料65である。筆者は北海道から近藤紡績所浜松工場に就職し、一年近くになっていた。精紡の仕事のこと、工場の見廻りさんのこと、文化祭のことなど、当時の勤労青少年の様子がよく分かる。同五十一年度も登録者は約四千五百人、利用者たちが自主的に運営し、料理・茶道・絵画など十一の教室が定期的に開かれたのをはじめ、スポーツ、歌、趣味の十六のクラブ活動が行われていた。また、各種スポーツ大会、サークルを語る会、新就職者歓迎会など、グループ活動を通じて仲間作りの輪を広げていた。これまでにサークル活動で知り合った五組のホームカップルも誕生していた。(『静岡新聞』昭和五十年六月九日、同五十一年六月七日付)。
 しかし、同ホームの利用者は昭和五十二年度は四万人を切り、翌年度は三万人台をやっと維持するまでになり、登録者数も同五十三年度には約千百人台と大幅に減った。このような利用者数の減少の要因の一つは、若者の余暇の過ごし方が様変わりしたことが考えられた。ウィークデーの利用者数はほとんど変わらないにもかかわらず、土曜・日曜の利用者が大幅に減ってきていた。そこで、昭和五十三年七月にホームは利用者百十九人を対象にアンケート調査を行った結果、日曜・祝祭日の休日の過ごし方で「ホームで」と答えた人は三人、「休日ぐらいは自宅で過ごす」が四十一人、大半の七十五人は「戸外で過ごす」と答えており、「休日だから仲間を求めてホームに行くというのは一昔前のこと。マイカーで外出するのが平均的勤労青年像でしょうか」と山岡邦彦同ホーム館長は述べていた。このため同ホームは昭和五十四年四月からは日曜休館に踏み切った(『静岡新聞』昭和五十四年五月十三日付)。若者のホーム離れの背景にはマイカー所有の一般化、マイ・ライフ尊重風潮など、勤労青年の意識変化があったと考えられた(『静岡新聞』昭和五十四年六月十五日付)。
 利用者の減少対策の一つとして、グループリーダー研修会やキャンプ大会、秋の芸術展といった様々な催しを全て若者主導型で運営していくことが出された(『静岡新聞』昭和五十五年六月二十六日付)。また、ホーム離れの要因の一因に、高校進学率の上昇に伴う中学校卒の集団就職者の減少もあった。また、高校卒業後に就職し、ホームの活動に参加した利用者からは「クラブ活動に慣れたころには引退しなくてはならない」という不満の声が上がっていた。昭和五十五年度には、利用者の平均年齢は開設当初よりも四歳上がって、二十二、二十三歳になっていた。そこで、昭和五十六年四月からは利用者上限年齢を二十八歳に引き上げた(『静岡新聞』昭和五十六年四月七日付)。
 
【アイミティ浜松】
 国際青年年の昭和六十年四月二十八日、浜松市立勤労青少年ホームは、船越町に移設され、平成元年十月一日から同ホームの愛称はアイミティ浜松になった。アイとコミュニティの合成語で、アイは「愛」と「会い」、若者が集まるセンターでは出会いが期待されるということから名付けられた。船越町への移転前は年間利用者数は三万人ほどであったが、移転後は四万人ほどに増加した。