昭和五十年は国連が定めた国際婦人年、浜松市でも長年の念願であった浜松市青年婦人会館が同年四月六日に幸町にオープンした。これは、青年・婦人の活動拠点として、趣味や教養を深め、豊かな心づくりに、グループの交流や仲間づくりに、あすの活力を養う健康なからだづくりに、奉仕の中からの連帯感づくりなどを目的に青年・婦人団体の熱心な働き掛けにより浜松市が建設したものである。この会館の特徴は、管理運営は市民参加で設立した浜松青年婦人協会が当たることであった。同協会には多くの青年・婦人団体が参加していた(『新編史料編六』 七社会 史料81、『静岡新聞』昭和五十年四月七日付)。同年十二月、市青年婦人会館を中心にグループ活動を続けている七十の市民グループが、団体相互の連絡・協調を図るため同会館友の会を設立させた。これらの団体で常時活動する人たちだけで約八千人あった(『静岡新聞』昭和五十年十二月六日付)。浜松市青年婦人会館の利用者数の推移(図3―48)を見ると、昭和五十年代は青年活動が婦人活動よりも盛んであったが、昭和六十年代には青年活動が徐々に減少し、婦人活動はそれとは逆に徐々に増加していたことがうかがえる。なお、この会館を利用する青年は主に地域で活動する青年であって、勤労青少年ホームを拠点に活動する中小企業で働く青年グループとは異なっていた。
図3-48 浜松市青年婦人会館の利用者数の推移
【青年活動 青年団】
昭和五十三年に市内で青年(男女)が活動していたサークルの数は、勤労青少年ホームに所属するものが十六、地域の青年団は三、青年学級は十四、農業後継者の4Hクラブは五、その他のスポーツ・レクリエーションは二十五、教養は十一、ボランティアは六、音楽は三、子供会リーダーは三、合計八十六と『広報はままつ』昭和五十三年十月二十日号に紹介されている。ここで紹介されていた青年団は庄内、湖東、入野地区であり、地域に根差した青年団の活動が低調になってきている反面、スポーツやレクリエーションのサークルは旺盛な活動を行っていた。そこで、国際青年年の昭和六十年、浜松市青少年育成推進連絡会は市内在住の十八歳から二十四歳までの男女各五百人ずつを対象に「はままつの青年意識調査」を行った。郵送での回収率は約三分の一であった。自由時間の過ごし方では「友人とともに」が約六割で、テレビ、ショッピング、読書、スポーツを抑えて最も多かった。また、生きがいについては「友人や仲間といる時」が約五割強であり、趣味や仕事を上回った。ところが、こうした友人や仲間を作る上で欠かせないグループやサークル活動への参加について、熱意は今一つで、これらに参加している人は約四分の一であった。参加している人でも多くはスポーツや文化・芸術活動であり、青年団や青年学級への参加はそれぞれ三%と二%であった(『静岡新聞』昭和六十年十月八日付)。このような青年の意識の変化が、勤労青少年ホームの利用者の昭和五十二年頃からの減少につながっていると思われる。