【浜松婦人懇話会】
昭和五十四年三月、女性の立場で広く社会的な諸問題を論じ、自主性を持った地域活動参加を目的とした浜松婦人懇話会・フェミニストサロンが誕生した。第一回の会合を北部公民館で開いた。従来の婦人運動が、多くの場合、地域における奉仕活動の手足として動く段階にとどまり、政策決定に関与することが少ないのが実情であった。そこで、同懇話会に集まった婦人たちはこのような現状を打破し、婦人たちが自らの資質を高めつつ自立の精神を持って社会的活動の中枢部分にまで参加し、同時に一個の人間としての価値を高めていくことを目指していた。当初の会員は十九人、二十五歳から四十五歳までの幅で、大部分は家庭の主婦だが、教員、幼稚園長などの職業を持っていたり、既にPTA、婦人学級などの社会活動に参加していたりした婦人たちであった。
六月からはミニ・カレッジとして、会員や大学教員などを講師とした婦人セミナーやカウンセラー養成講座、文章教室等も西部公民館で連続して開催していった。昭和五十五年、国連婦人の十年の中間年の第二回世界女性会議がコペンハーゲンで開催され、同懇話会の会員の佐藤和子が参加、帰国後、報告会を開いたり、参加報告を新聞に書いた(『静岡新聞』昭和五十五年八月二十七日付)。
昭和六十年一月、同懇話会の佐藤和子ら浜松の主婦八人が女性の視点を生かした新ビジネスとしてソナティ・エイトという株式会社を設立した。佐藤和子が社長となり、PR紙の製作や印刷物の編集請け負い、翻訳等を担当するインフォメーションセクション、講座・講演会・セミナー・シンポジウム・展示会などの企画と実施を受け持つイベントセクション、女性を対象とした商品、消費行動のリサーチの実施と情報提供を行うリサーチセクションの三部門の営業を開始した(『静岡新聞』昭和六十年一月二十日付)。
【女性による起業 国連婦人の十年浜松婦人会議】
浜松婦人懇話会を中心とした婦人の自主的活動が下地となって、主婦を中心とした女性たちがソーシャルビジネスを起業するという、昭和六十年当時の日本にとって、画期的な取り組みが浜松にあった。これは、戦後、間もない頃の戦争未亡人たちによるパン工場の経営や幼稚園の設立などの起業にも匹敵する積極的な試みであった。また、戦争未亡人たちの活動は行政や社会福祉事業家の支援を受けて行われたが、浜松婦人懇話会の活動も、国連婦人の十年の国際的な活動と、政府・市の行政としての取り組みと連携して行われた。特に市が進めた浜松婦人会議の取り組みに積極的に関わっていった。八一年国連婦人の十年浜松婦人会議(児玉レイコ事務局長)は昭和五十六年六月四日から六日間にわたって松菱百貨店などの会場で講演会や展示会を開催、一万人を超える入場者があった。
さらに、浜松婦人懇話会の佐藤和子は、昭和六十年十月に開催された国連婦人の十年記念シンポジウムで基調講演を行い、その後で開かれたパネルディスカッションでは、男性社会の中で婦人が社会参加する方法について婦人が男性化するか、社会全体が男性も女性も同等に働けるように変革するか、男性とは異なった場所での活躍の場を求めるかのいずれかを選ばなければならないと問題提起を行った(『静岡新聞』昭和六十年十月二十九日付)。