【浜松婦人のつどい】
国際婦人年国内行動計画に基づく婦人の地位向上運動の一環として、浜松市教育委員会は婦人のための勉強の場を設けることになり、浜松市婦人連盟、各地区の婦人学級、農協婦人部など、婦人の団体やサークルに呼び掛け、浜松青年婦人協会の錦織淑子副会長を委員長とする実行委員会を設け、青年婦人会館で浜松婦人のつどいが開催された。昭和五十四年度から、毎年開催され、「地方の時代における婦人の役割」、「地域づくりにおける婦人の役割」、「明るい家庭と社会の教育を考える」等のテーマを設け、講演会と分科会を行い、毎年三百人程の参加者があった。この婦人のつどいは市内の婦人団体間の横のつながりを生み出していった(『静岡新聞』昭和五十四年十月十九日付、同五十五年十月二十三日付、同五十六年十月二十七日付)。
【婦人会】
新旧住民の軋轢(あつれき)と若い婦人層の無関心とで七年前に婦人会を解散させていた富塚町、和合町など富塚地区で、新しい時代の婦人会の在り方を考えようと富塚地区を学ぶ会が昭和五十七年九月に発足した。富塚地区は、約三千五百戸の三分の二が新興住宅という開発地区であった。核家族で婦人の就労率は高く、婦人会はあっても役員だけの活動に終始しがちであった。そこで、婦人会が一般婦人を対象にアンケートを取ったところ、婦人会に「入会したくない」「どちらでもよい」の拒否、無関心派が合わせて六十一%もあった。この結果を受けて、当時の役員は解散を決意し、昭和五十年三月以降、同地区には婦人会組織はなく、自治会活動がこれをカバーしてきた。しかし、地区の中高年婦人たちから「婦人を抜きにして地域つくりなんて考えられない」という声が上がり、「地域づくりとは何か」を研究しようということになり、この会が出来たのである。子育てを終えた婦人たちが自由な活動の中で地域を考え、その中から解放的な新しい婦人組織をつくっていこうという動きが始まった(『静岡新聞』昭和五十七年九月二十五日付)。経済の高度成長が始まる昭和三十年代前半までは、地域の婦人会は新生活運動などで結婚式の華美をいましめ節約を呼び掛け、トッパーなどの揃いの婦人会服を着て活動をしていたが、生活水準が全体として向上していくにつれて、個人個人の生活スタイルの自由を求める風潮の中で、地域の祭りや体育大会で手踊りを披露したりする集団活動は次第に寂れつつあった。しかし、毎年開催されていた浜松婦人のつどいの動きや浜松婦人懇話会での意欲的な婦人の発言や活動、さらに国際的国内的な婦人の機会均等を求める運動に根差した浜松婦人会議の開催などが契機となって、婦人が自分たちの意思で地域づくりを考え、参画していく動きが出始めてきた。昭和五十七年十一月には、新興住宅地の佐鳴台地区の主婦を中心に、自治会や学校や子供のことなど身近な問題を話し合い、生活の中から新しい発見を目指す三十代の主婦たちが「一歩の会」を結成した(『静岡新聞』昭和五十七年十一月十三日付)。
【婦人の意識 夫婦観 結婚観 ウーマンリブ運動】
浜松市は昭和六十三年八月に市内の婦人の意識調査を行った。その結果、家事・育児は「夫婦が共同で当たるべき」が七割近くであったが、夫婦関係では「妻は夫を立てる」という伝統的な夫婦観が過半数を占めた。六十五%が男女平等になっていないとしながらも、「無理はない」の六十一%に対し、「差別があるのはおかしい」は三十三%にとどまった。また、若い年代ほど家庭責任を夫婦共同で分担すべきという意識が強いほか、結婚についても「あえて結婚する必要がない」が三十四%を占めた。離婚容認派が過半数であることを考え合わせると伝統的な結婚観が揺らいでいると考えられた(『静岡新聞』平成元年二月八日付)。昭和四十五年頃、ウーマンリブ運動が提起した、性別での職場や家事の役割分業の固定化への不満と、対策としての家庭責任の夫婦分担を是とする意識が若い女性の間に浸透しつつあったことがうかがえる。