占領が終わってから、軍人の遺族や、軍人・軍属の身体障害者への援護は国によって開始された。浜松市は昭和十九年十二月から終戦までの九か月間に二十七回も空襲や艦砲射撃に遭い、二千九百四十七人(浜松市調べ、浜松警察署の調査では三千二百三十九人)の市民が死亡し、負傷者は千七百二人(浜松市調べ、浜松警察署の調べでは二千九百十二人)であった。全国では、百十五の都市が大きな戦災被害(戦災指定都市)を受け、五十万人以上の一般民間人が死亡、障害などの被害を受けた。しかし、戦災での遺族・負傷者への援護の手はなかった。
【浜松市戦災死者遺族会 日本戦災遺族会】
そこで、浜松市の戦災遺族たちは坪井貞治が中心となって昭和四十年六月五日に浜松市戦災死者遺族会(後に浜松市戦災遺族会)を発足させた。この後、各地に戦災遺族会が結成され、昭和五十二年六月に上部団体の日本戦災遺族会が発足、理事長には浜松市の坪井貞治が就任、以後、浜松市戦災遺族会が全国の戦災遺族会をリードしていくことになった。日本戦災遺族会の活動規模はピークだった昭和五十六年度末には遺族会三十団体、会員数四千二百六十九人に上った(『中日新聞』平成二十二年五月十五日付)。
【浜松空襲・戦災を記録する会 『浜松大空襲』】
昭和四十七年、浜松市福祉事務所社会課内に事務局を置く浜松市戦災死者遺族会を母体として浜松空襲・戦災を記録する会が結成され、『広報はままつ』に空襲・戦災の被災者に体験談や当時の資料・写真等の募集を呼び掛けた(『広報はままつ』昭和四十七年三月五日号)。同年九月、西武百貨店浜松店特設会場で浜松大空襲展を開催、翌年『浜松大空襲』の冊子を刊行した。
【浜松戦災傷病者連絡会】
また、戦災負傷者は浜松戦災傷病者連絡会(根木英夫会長)を結成し、昭和四十九年三月、第一回浜松空襲戦災者の集いを市役所食堂で行った(『静岡新聞』昭和四十九年三月二十四日付)。負傷者の老齢化が進んできたことも考慮し、この上部団体の全国戦災傷害者連絡会は全国市長会長の平山博三浜松市長に一般民間戦災犠牲者に対する援護法の早期制定と該当者の実態調査の実施を政府や関係機関に要請してほしいと訴えた(『静岡新聞』昭和五十年八月二日付)。根木英夫は同連絡会の副会長であった。
【民間戦災傷者見舞金】
なお、戦災遺族の高齢化に伴い、日本戦災遺族会は平成二十二年三月末、解散に至った。しかし、戦災遺族会や戦災傷病者連絡会が訴えた戦災遺族・負傷者への援護法は、現在に至るまで実現されていない。なお、昭和五十五年から、浜松市は民間戦災傷者見舞金の支給を開始した。