[石油危機後の舘山寺温泉]

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【舘山寺温泉】
 舘山寺温泉の旅館街にとって昭和四十八年末からの石油危機は、大きな曲がり角となった。同四十九年の東名高速道路の浜松西インターの完成で、舘山寺温泉へ車で約十五分となり、マイカー客の乗り入れは増え、日帰りの観光客は増えたものの、同四十九年の宿泊客数は前年より約千人増えたのみで、約六十六万人であった。同五十年になると、宿泊客数は前年より十二万四千人も少ない五十三万六千人と大幅に減少した(表3―28)。不況が観光客の懐を引き締め、宿泊客数の低迷に結び付いたと考えられた(『静岡新聞』昭和五十年十二月二十一日付)。宿泊客数の減少に県や市、地元ではいろいろな対策を取り始めた。昭和五十二年二月十三日には中日浜名湖一周駅伝と中日浜名湖ロードレースが始まり、同年五月二日には有料道路の舘山寺・村櫛間が開通、浜名湖大橋と結ばれることになった。駐車場不足に対しては同年遊園地パルパルの南側に大規模な公共駐車場を完成させた。
 
表3-28 舘山寺の観光関連の出来事と宿泊客数の推移

観光関連の出来事
宿泊客数
 (万人)
昭和48年
浜名湖大橋開通。
65.9
49年
東名高速浜松西インター完成。
66
50年
汚水処理施設の建設。
53.6
51年
舘山寺温泉暴力追放協力会の結成。
59.4

52年
日帰り客、通過休憩客も合わせ215万人突破。
第1回中目浜名湖一周駅伝競走大会、同ロードレース開催。
浜名湖レイクサイドウェイ舘山寺村櫛線開通。
市第二公共駐車場完成。

74.1
53年
74.6
54年
第1回かんざんじ温泉観月と俳句週間実施。

55年
第1回かんざんじ温泉観月と俳句週間の特選句3作
を刻んだ石碑を愛宕神社境内に建立。
遊園地パルパルに東洋一の大観覧車"ひまわり"完成。
56年
57年
浜名湖周遊自転車道に歌碑、句碑を建立。
75
58年
新動物園開園。
59年
「舘山寺新八景」選定。
60年
レンタサイクル開始。
67.3

61年
いちご狩り開業。
遊園地パルパルに新鋭遊具「ジェットコースターパルス
ター」新設。

69.8
62年
舘山寺美術博物館が開館。
67.8
63年
71.3
平成元年
にっぽんの温泉100選で、35位になる。
74.8
出典:『静岡新聞』昭和51年4月17日、同52年2月2日、同54年5月10日付、『浜松経済レポート』第177号、『浜名湖かんざんじ温泉40周年記念誌』、平成3年度『浜松市舘山寺地区観光(産地)診断報告書』、昭和50年度産地診断『舘山寺温泉旅館業界診断報告書』

 
【かんざんじ温泉観月と俳句週間 浜名湖周遊自転車道 浜松市動物園】
 また、シーアスレチック作りや遊園地の遊具の新設、かんざんじ温泉観月と俳句週間の開催(昭和五十四年)、利用者の高級志向に対応してホテルの改築や新築をしたが、その際には利用者のニーズに合わせてパブやスナックの増設なども行った。昭和五十八年には浜名湖周遊自転車道の弁天島・舘山寺間が完成、さらに観光客の増加に一役買ったのは動物園の移転であった。中心部にあった浜松市動物園は広い敷地を求めてフラワーパークの隣接地に建設されることになり、舘山寺町に昭和五十八年四月二日にオープンした。これら行政や旅館関係者、観光開発会社、住民らの努力によって、宿泊客数は昭和五十年の五十三万六千人から、同五十七年には七十五万人に達し、七年間で約二十一万人の増加となった。しかし、その後、昭和六十二年には六十七万七千人にまで減少し、宿泊客数は伸び悩んでいた。
 
【新泉源】
 こうした折、昭和三十三年に開湯した時の泉源と同五十四年に掘削した時の泉源の湯量が不足してきていた。また、どちらも低温で旅館関係者を悩ませていた。そこで、平成元年、フラワーパーク西側で新泉源(第三泉源)を掘り当てて同三年四月二日から新温泉の給湯を開始した(『新編史料編六』 七社会 史料112、『朝日新聞』遠州版 平成元年八月十二日付、『静岡新聞』平成三年四月三日付)。
 なお、舘山寺温泉の宿泊客は昭和四十九年の調査では、東京・神奈川から三十二・八%、それ以外の関東から二十三・五%、関西から二十三・八%、中京から八・八%、県内からは四・三%であった(『静岡新聞』昭和五十年二月二十二日付)。市内からの観光客は日帰りが多かった。
 
【舘山寺国民宿舎】
 全国で約三百ある国民宿舎の中でも数少ない黒字経営が続いていた舘山寺国民宿舎(『新編史料編六』 七社会 史料95)は、宿泊客数が昭和四十七年から四十九年まで三年連続して約五万二千人前後で推移していた。ところが、石油危機後の不景気の中で、昭和五十三年頃一時持ち直すものの昭和六十三年まで減少し続け、約四万二千人となってしまった。みかん風呂や朝市などを企画して地元の老人クラブに利用を呼び掛けたところ、日帰り客は一時持ち直したものの、宿泊客は減り続け、ついに昭和五十九年には赤字経営となった。これは五十九年頃から本格化しつつあった景気回復による利用者の高級志向に対して、老朽化した施設では太刀打ちできないようになったのである。このため、平成二年五月から三年にかけてリゾート風に改築し、平成三年四月二十七日から営業を始めた。これに伴い、国民宿舎浜名湖かんざんじ荘と名称を変更した。