【ゲートボール】
高齢者でも手軽に楽しめる運動として登場したのがゲートボールであった。ゲートボールは昭和二十二年、北海道十勝支庁芽室町の鈴木和伸によって戦後の困窮期に遊び道具のない子供たちのために考案された。しかし、経済の高度成長期に高齢者向けのスポーツとして全国的に普及していった。浜松に入ったのは昭和五十一年二月。市教委と市老人クラブ連合会がタイアップして六月から開催した老人健康教室で、市教委は楽しみながら体力づくりが出来るスポーツとして、六十歳以上の老人を対象にこのゲートボールを中心種目に取り上げた。当時、南九州では目覚ましく普及していたが、静岡県では浜松市教委が最初に取り上げた(『新編史料編六』 七社会 史料101)。その後、市内各地の老人クラブではゲートボールが盛んに取り組まれるようになった。昭和五十三年十月には市内約二百七十の老人クラブに取り入れられ、競技人口は三千二百人になった(『広報はままつ』'78・秋 昭和五十三年十月二十日号)。それぞれの地域ごとにゲートボール場としても利用できる町民運動場が、市と自治会、老人クラブの協力によって整備されていった。砂山町では昭和五十六年に、自治会が町内の空地を借りてゲートボール場(子どもの遊び場、踊りの練習場にも)を誕生させた(『静岡新聞』昭和五十六年一月十八日付)。
【スポーツクラブ】
このような市民の健康志向に対応して、昭和五十一年四月二日に本格的アスレチッククラブのグリーンスポーツプラザが西塚町に出来た(『新編史料編六』 七社会 史料99)。当初、浜松では早過ぎるという声もあったというが県内で最初に作られた。体力作りのための水泳教室やトレーニング教室、テニス教室などが企画された(『静岡新聞』昭和五十一年一月三十一日、同年四月三日付)。その後も、これに類したスポーツクラブが数多く出来るようになり、スケート、乗馬、ダンスなどのクラブや教室も出来た。また、乳幼児やジュニア、女性専用のものも登場するようになった。
【バッティングセンター】
バッティングセンターも昭和四十年代に市内に出来始め十カ所以上あったが、昭和五十年には鹿谷町に一カ所残るのみとなった(『静岡新聞』昭和五十年七月十八日付)。しかし、昭和五十二年頃から不況の中、安い費用で遊べるバッティングセンターの人気が再燃し始め、昭和五十三年七月時点で市内に七カ所もあった(『静岡新聞』昭和五十三年七月二日付)。