【留守家庭児童会 カギっ子】
留守家庭児童の増加に対して、市教委は昭和四十二年五月から中ノ町と積志の二公民館に留守家庭児童会を設置、同四十五年からは相生と吉野小学校区にも留守家庭児童会を設置して、放課後から午後五時まで子供たちの面倒を見てきた。さらに、昭和四十七年からは一般児童を含めた学校開放事業として泉、神久呂の二つの小学校で実施、二人の指導員がグラウンドでスポーツ活動などの指導に当たっていた。ところが、昭和四十八年には〝カギっ子〟の数は六千三百九十五人、その割合は十五・五%となり、減少傾向から一転して増加に転じた(『静岡新聞』昭和四十八年八月二日付)。
【学童保育所】
小学生を抱える母子家庭や共働きの家庭では、必要に迫られて母親たちの手で学童保育所をつくろうという動きが出てきた。昭和五十四年四月、遠州浜地区で母親たち三十人が学童保育をすすめる会を結成し、私設で遠州浜学童保育所(松ぼっくり児童会)を開設した。無認可のため、市などからの援助はゼロであった(『静岡新聞』昭和五十四年六月三日付)。同年市内には民間の学童保育所がほかにも三つあった。入野町の若草児童会、曳馬町のしまうまクラブ、飯田町の青空クラブであった。これら計四カ所の民間の施設が浜松市学童保育所連絡協議会結成のための準備委員会を昭和五十四年七月に発足させた(『静岡新聞』昭和五十四年七月十日付)。また、当時、聖隷学園でも付属学童保育所を設けていた(『静岡新聞』昭和五十四年十一月八日付)。
市教委は昭和五十一年度から、留守家庭児童の個別健全育成から、地域児童全体の中に溶け込ませた健全育成方針に転換し、対象児童の枠を外した。このため、一般児童の割合は年々増加して、昭和五十四年度には三十%近くまでになっていた。市内の四つの公民館の学童保育所には一年生から三年生を中心に、それぞれ四十人から六十人の児童が通い、市教委から委嘱された退職教員らが指導員として各会に二~三人配置されていた。児童は下校後、それぞれの公民館へ集まり、指導員の指導の下、各自の宿題を仕上げたり、集団遊びをしたりして午後五時頃まで過ごした。楽しく過ごしながら、基本的なしつけや集団生活の仕方が教え込まれていった。相生若竹会の元小学校教諭の指導員は「〝カギっ子〟の保育所という古い観念を捨てて、下校後の子供の気楽な遊び場として積極的に活用して欲しい」と語っていた(『静岡新聞』昭和五十四年八月二十二日付)。
【浜松市学童保育連絡協議会 児童健全育成事業】
昭和五十四年十一月、浜松市学童保育連絡協議会結成準備会は、①一小学校に一カ所ずつ公立の学童保育所を設置する、②公立化されていない小規模の学童保育所に児童数割で補助金を出す、③夏休みなどの長期休暇および公民館休館日にも公立の児童会を開く、④放課後の児童の実態調査をする、⑤市広報などで学童保育所の存在を市民にPRしてほしいという以上五項目の要望書を市に提出し、市の川崎正信助役を囲んで話し合いを行った。これに対し、市の川崎助役は「子供の教育は親が責任をもって行うのが最も適切。一中学校に一か所を目標に建設している市立公民館を放課後の児童健全育成に役立てたい。学童保育を認めていないので、現状では補助制度については何ともいえない」と回答した。公立の施設では、夏休みは実施していなかったが、民間の施設では実施していた。当時、放課後の保育所や児童会で保育していた児童数は三百六十人で、保育を必要としていた児童数の一割余りでしかなかった(『静岡新聞』昭和五十四年十一月八日付)。なお、翌年四月、浜松市学童保育連絡協議会は正式に結成され、会長にしまうまクラブの運営をしていた山形美恵子が選出された。また、市は同年四月から神久呂小、泉小で行われていた学校開放事業を取りやめ、地元の公民館が放課後の児童への健全育成事業をすることになった。また、市は昭和五十五年度から中学校区に一カ所ずつ建設を進めている公民館で児童健全育成事業を展開していくことになった。同年度は既存の積志、中ノ町、東部の三館を含め十館で展開された(『静岡新聞』昭和五十五年四月二十一日付)。なお、共働き家庭からの要望が強かった夏休み保育は昭和五十六年には十四カ所で、翌年には十六カ所で実施し始めた。