[一樹百穫]

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【仁瓶禮之】
 ここで記すことは市当局・浜松市医師会・新聞紙上の論調・市民感情などの動向が、国立浜松医科大学の創設に収斂(しゅうれん)していく過程、特に市当局と浜松市医師会が打った布石について、『広報はままつ』や新聞記事に拠って述べるものである。標題の「長年の石積み」とは、『広報はままつ』の特別臨時号(昭和四十七年九月二十五日発行)におけるタイトル「長年の石積みが報いられた医大の浜松設置」から引用したものである。また、この医療問題を回顧し展望した文章がある。それは昭和五十七年の『広報はままつ』冬の号に「時代に即応した医療体制を」という標題で掲載されたもので、この論者は仁瓶禮之(当時、浜松医科大学第三内科助教授)である。主旨を要約し、第三章の導入とする。
 日本では医療保険制度の整備が進んだが、これでは解決できない問題が数々ある。救急医療の不備によるものである。浜松市当局は「市医師会・市内の病院と協議を重ねた末に、昭和四十九年、夜間救急室を発足させた。(中略)この救急体制は同室が一次救急、市内病院が二次救急を分担」するもので、徹夜の診療は市内の開業医によるものである。
 この救急医療体制は浜松方式として全国的に知られているが、医療行政の特徴は市・医師会・病院などの医療従事者間の緊密な連携にある。地域医療の望ましい姿に向けて実行してきた成果は、医師会中央病院から県西部浜松医療センターへと発展したオープンシステムの病院の創設である(第二章参照)。
 これは市立病院とは異なり、市による医療公社の経営であり、地域住民への医療提供、地域開業医への知識技能の再学習の場ともなっているのである。この延長上に展開したのが医科大学の誘致運動であり、昭和四十九年に国立浜松医科大学が設置されたのである。浜松市民と周辺市町村の住民を高度にして最新の医療の受益者とするような、広義の地域医療の体制が整備されたことになる。
 仁瓶禮之の論点には浜松市の医療行政を展望する上で、歯科衛生士の養成・看護婦の養成・市民保健予防センター・医薬品情報管理センターなどが挙げられている。
 これらの布石の上に浜松医科大学をはじめ各種医療機関の整備が進むということは、広く浜松市域に医療従事者の教育の現場が充実することである。「一樹百穫」と古人が説くように人間社会の百年の計を推進する人材が養成される現場である。医療従事者個人の能力アップやチームプレーがしやすい環境作りを浜松市民が今後いかに盛り立ててゆくか、市民社会の成熟した行動、不断の「石積み」という切磋琢磨が求められているのである。