他方、社会の風潮からみると戦後の高度経済成長の達成の裏面には深刻な諸問題が生じていた。公害問題や交通事故が急増し、事故死亡者が激増した。
このような社会が生み出す生活不安のなかで、新聞紙上に見える悲劇は交通事故等の重傷患者の病院たらい回し事件が頻発していることである。また、新聞投書欄にみえる医療に対する市民の願いは、右のような急患の受診と日曜休日の受診が可能であること、あるいは、病院の昼夜二部制への要望などである。昭和三十六年十二月十三日付『静岡新聞』に報じられた、市内開業医による「当番制で日曜応診」がその回答になろう。すなわち、「最近は交通事故なども多く、救急車をまごつかせるような場合もありがちのため、日曜当番制の実施に踏み切つた」というものである。
【大久保忠訓】
さらに浜松市医師会では昭和四十二年一月二十三日に救急医療浜松地区連絡協議会を発足させ、同年五月の会合では、「病院が収容できないときは責任をもって収容できる病院を紹介する。祝祭日、休日の当番に遠州・日赤・国立・聖隷・社会保険の5病院の中の一つが必ず当たる」ことを申し合わせている(『救急医療の歩み』平成四年三月刊)。この記事は右書収載の座談会「開設見切り発車の頃」の冒頭発言であるが、発言者は右書の発刊時点での浜松市医師会長大久保忠訓(外科、菅原町開業)である。この大久保忠訓は救急医療の問題を考える連絡協議会の中心人物であり、昭和四十一年には、その下地がつくられていた。右書の序文「夜間救急記念誌発刊に寄せて」に、「当時は交通事故等の外科的疾患を対象としたものから出発した」ことを記している。さらに「医療の原点はすべて救急医療にある」という信念は、地域医療を支える医師達の共通認識であることが読み取れる。