このような経過をたどって昭和四十九年五月二十八日、浜松市医師会の夜間救急体制は発足した。それは夜間救急室の診療(1次診療)、診察の上、重症患者はすぐに当直制となっているセカンドエイドの病院に運ばれ、手術や入院の措置が取られる(2次診療)という手続きを踏むものである。この体制は病院のたらい回しを絶ち、医師の不在を極力なくすことから出発したものである。
【渡邊登】
しかし、これには開業医と病院、質の違う病院と病院、医師と行政側という三者の協調が前提にある。これを可能ならしめた前提には、浜松市医師会が直面し奮闘してきた歴史があった。それは戦後の医療事情に対する市民感情を背景に、開業医らが結束して浜松市医師会中央病院を創設し、さらに公設民営の県西部浜松医療センターへと移行させた実績があったのである。これを牽引したのが渡邊登医師の思想と行動であり、室久敏三郎をして「渡辺教マインドコントロール」と総括させたものである(第二章第四項「浜松市医師会の諸相」参照)。この影響下で病院と開業医とが競争相手となることではなく、協調することが下地となったのである。「渡辺先生が開業医と病院を分けて開業医はベッドを持たないとしたことが大きかった」(『救急医療の歩み』所収、座談会「開設見切り発車の頃」、大久保忠訓発言)、と言うわけで、「1次は何があっても開業医が、そのかわり2次は総合病院でやろうと。」(右座談会、住山正男の発言)いう行動がとられたのである。
しかしながら「1次と2次の連繫」が確立する過程で、交通事故の取り扱いに端を発して、「浜松方式というけれど、1.5次は妥協の産物」という事態が生じている。病院側では「ちょっとした外傷くらいは開業医がやるべきだ」として必ずしも原則通りではなかった(右座談会、内田智康、大久保忠訓の発言)。この1.5次とは外科系四科の開業医を輪番制待機の医師と位置付けるものである。
浜松方式とは厚生省職員が評した言葉という(『浜松市医師会史』所収、「内田会長の時代」、平成八年三月刊、参照)。重症患者の病院たらい回し事件が全国的に発生していた社会状況の故に、浜松市医師会が実施確立した救急医療体制は全国的な反響を呼び、その時点の問題点は「全国のモデル時代」(『救急医療の歩み』)という座談会で知ることが出来る。その一つは開設当初は夜間救急室ではなく、夜間診療室として市民が利用する例があることをいい、『広報はままつ』では目的をはき違えた市民の不心得をなくすべく、再三再四キャンペーンを張っている。
【夜間救急室】
昭和五十年四月二十三日には新しい夜間救急室の建築完成による診療開始があり、同五十三年七月十八日付の『静岡新聞』は開設五年目にして利用者が八万人を超して市民生活に定着していることを報じている。その利用者は西遠地方のみならず、天竜川東の周辺二十市町村に及び、浜松市では運営費の増加に耐えきれず、特に利用者の多い七市町村に一部を負担してもらうことになったと、同五十二年一月二十七日付記事で七市町村の負担金額を示して報じている。
なお、昭和五十六年三月三十一日付でこの夜間救急室の開設当時の経緯について記した『夜間救急六年のあゆみ』が浜松市医師会(医師会長柳本冬彦)から刊行された。これには詳細な「浜松市夜間救急室年表」が収録されているが、浜松市医師会における理事会、委員会などの諸活動のうち、救急関係が議題となった各種会議について、月日・場所が記されている。その記録期間は明治二十九年一月の町立避病院と大正四年五月の市立浜松病院開院に次いで、昭和二十七年四月の浜松市立病院の改名記事から、昭和五十六年三月の救急医療懇談会記事までである。
後年の昭和五十九年十一月二十一日付の『静岡新聞』には、浜松方式の救急医療体制の十年間の成果と課題が広島市で開かれる日本救急医学会で県西部浜松医療センター副院長内村正幸によって発表されたことを報じている。もっともこの時点での学会発表であるので、これより前の昭和五十七年十月十五日に県西部浜松医療センターに併設されてオープンした救命救急センターの問題点も発表されている。