[救命救急センターの開設]

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 厚生省が救急医療体制の整備を打ち出したのは昭和三十九年度からであるが、これに呼応する形で県衛生部は県下の救急医療ネットワークを作る指導を、市町村に向けて始めている。
 
【救命救急センター】
 浜松市の場合は1次・2次の救急医療体制は他市町村に先駆けて、右に見たように進んでいた。しかし、2次救急施設では十分に対応できない脳卒中、心筋梗塞、頭部外傷などの死亡率が高く手術が必要な患者を収容し治療する施設、つまり、3次救急施設の整備が遅れていた。県下では昭和五十四年六月に静岡市の静岡済生会病院、五十六年十一月に伊豆長岡町の順天堂大学医学部附属順天堂伊豆長岡病院に救命救急センターが設置されている。同五十六年二月十七日付の『静岡新聞』には、県西部浜松医療センターに救命救急センターの設立が報じられている。
 浜松市においては、県が新年度予算案に二億九千八百万円の助成金を計上したのを受けて設置を決めたが、医療センター内の手狭さを改造することとなった。医療センター内の三次救急施設にはICU(重症患者集中治療システム)やCCU(循環器患者集中観察治療システム)など高度の診療機能が備えられ、二十四時間態勢で心筋梗塞や脳卒中、頭部損傷など生命に関わる重症救急患者の治療に当たるものである。計画ではベッド数は三十床で、後方ベッド(救命救急センターで症状がある程度回復した患者を収容するもの)が三十床という。しかも救命救急センターは大井川以西の施設ということから県費増額を要求し、補助金一億三千万円が上乗せされることになった(昭和五十六年九月十日付『静岡新聞』記事)。
 ところが、浜松の救命救急センターの開設は、看護婦定員二十六名を満たせず、延期され、それ故に昭和五十七年十月十五日のオープンは、循環器患者集中観察治療システム(CCU)のみであった。
 看護婦不足はその後も解消しなかった。翌五十八年十月十五日付『静岡新聞』によれば、脳外科病床の四十床を二十床に減らし、同科の看護婦五人を救命救急センターに廻し、医師五人、看護婦二十一人で運営していくとして、昨年のCCUに続いてICU(四床)を開設(同年十月十四日)するに至っている。
 
【トリアージ】
 なお、浜松方式と言われるものには機能上から見て特異、かつ斬新な方法が開発されている。それは集団災害事件が発生した現場で、患者を重症患者と軽症患者とに選別し、処置・診療するというトリアージのシステムを開発したことである。それは交通信号に倣って赤・黄・青の識別票を患者に付けるというものである。これは「まず夜間救急室でテストの標識を作ってみて救急車に載せたのがはじまり」であり、発案者は内村正幸(医療センター副院長)という。これによって赤の識別票を帯びた患者が「一箇所の病院に集中しないように最初から分散することでより効果的な処置が受けられる」(『救急医療の歩み』、座談会「全国のモデル時代」)というものであった。