【医科大学誘致】
浜松市においては市制六十周年記念事業の一環として昭和四十六年一月に、県西部浜松医療センターが起工されているが、この頃には長谷川保の私立医大構想が浮上し、浜松市や市医師会に衝撃を与えていた。時あたかも浜松市長選では私立医大設立を選挙公約に掲げている。右に対し平山博三は国立医大誘致を掲げた。昭和四十六年四月、浜松市長平山博三の任期切れ改選の市長選が執行され、平山が再選された(後援会長内田六郎、産婦人科医、市医師会理事内田智康の父)。この余勢を駆って、平山市政は市医師会との密接な連携を背景に、後に誘致運動で明確になる静岡県知事竹山祐太郎の支持もあり、かつ、政府の一県一医科大学設置方針に乗って、国立の医科大学誘致を期したのである。
これより前の昭和四十三年九月の定例県議会では医科大学設置促進特別委員会を設けた。静岡県の医療水準の向上は医科大学誘致が先決であるとし、文部・大蔵両省にその実現を働き掛けてきた。その陳情には誘致候補地として静岡・浜松の両論併記であった。
浜松市議会は同四十六年十一月二十四日、医療問題特別委員会の設置を決め、看護婦養成と医大誘致などを議題にすることとなった。
【国立医科大学誘致期成同盟会】
昭和四十七年一月二十九日付の『静岡新聞』記事によれば、西部地区三十市町村の代表(市町村長・議会議長)が結束して、国立医科大学誘致期成同盟会を発足させ第一回総会を開いている。会長は平山浜松市長が選ばれ、その挨拶では公共施設の県都集中に反対し、県東部地区へも呼び掛けていく姿勢を示している。他方、同四十七年二月三日の記事では、右誘致期成同盟会は西部地区選出の県議会議員を招いて誘致懇談会を開いたが、席上、平山市長から大学誘致の準備と用地確保済みの経過説明があり、県議会議員は超党派で協力することを表明したという。
また、この記事には静岡市側の誘致運動も記されている。市長は企画部内に対策室を設置する腹案を明らかにし、四十七年度運動促進費を四十六年度の三倍近い二百万円を計上し、設置場所も発表している。
【浜松誘致決定】
当時の浜松市医師会長木俣邦夫の手記によれば(『浜松市医師会史』、「木俣会長の時代」)、後発の誘致活動を展開する静岡市では、「当時の静岡市医師会は、医大誘致に反対する気運が強かったのが、急に、静岡市医師会も誘致に動き出した。私は当時、県医師会の役員もしていたので、県医師会の役員、特に東部選出の役員に対して、強力に働きかけた。」と言う。当時の浜松市医師会では十年の実績を持つ浜松市医師会中央病院を県西部浜松医療センターに移行させ、「誘致する医科大学の教育関連病院とする構想」があり、かつ、市は八万坪の土地を確保していた。また、国会議員等の働き掛けや医師会の熱意と実績から「当時の田中角栄総理の決断」で昭和四十八年一月十五日、浜松誘致が決定したという。