[『広報はままつ』の意思表示]

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 大学誘致問題に関する新聞記事とは別に、浜松市政上の公式発言としては、『広報はままつ』昭和四十七年九月二十五日発行の特別臨時号がある。これには「長年の石積みが報いられた医大の浜松設置」という副題を持つ、国立医大問題が特集されている。それまで『広報はままつ』は市民に向けて積極的な大学誘致に関わる説明をしてこなかった。この時点での公式発言は竹山県知事による浜松市誘致が表明されたからである。
 国立医大の建設候補地はこれまで静岡・浜松であったが、竹山県知事が昭和四十七年八月二十一日に稲葉文部大臣に面会した時、この設置場所を浜松にしたいことを伝え、知事が静岡市に表明したことから、これを不満とした静岡市側が反対運動を展開した。
 『広報はままつ』が記すところでは、昭和四十八年度の国家予算の概算要求書の提出期限が迫っており、かつ、第一次田中角栄内閣の発足(昭和四十七年七月七日)に伴い、高見三郎(第三次佐藤栄作内閣)に代わって文部大臣稲葉修が就任した。竹山知事は同四十七年九月七日の県議会で医科大学の浜松市誘致の考えを表明した(『静岡県史』通史編7)。竹山知事の説明を『広報はままつ』では、次のように引用する。「内閣改造により稲葉大臣に代わったうえ大臣は他県のひとで静岡県の事情にも明るくないし、予算編成期にもなったので、浜松市への設置を申し入れた。私の責任で決めた。」「浜松に決めたのは総合的判断によるもので、用地も確保され、単科大学なら浜松市がよい。今後も文部省に強力に働きかける。浜松案は撤回しない。」と。
 静岡市側の巻き返し運動が展開されていることに対して、「浜松市はなぜ大騒ぎしないのか」という浜松市民の疑念があることを十分に承知していたということの証明を、この九月二十五日に至って公式発言することで果たしている。つまりは四十八年度予算の概算要求を成功させるためであったというのである。「静岡県内で、浜松と静岡が争っていると判断されますと、四十八年度分で静岡県は落されてしまう心配がじゅうぶんあります。これは最悪のことがらで、そうなれば当分静岡県に、医大誘致はむずかしくなるでしょう。」「このため、ジッーとがまんをして、大会を開いたり、陳情合戦をやったり、文書を配付したりしなかったわけです。お知らせが遅れましたことを深くおわびいたします。事情をご了解ください。」と釈明し、浜松市側の目的のための自己規制が述べられている。
 右に見えるような「事情」の裏側でどのような工作を展開していたのかというと、実はこの『広報はままつ』の末尾には、「運動経過のおもなもの」という年表が掲載されており、その記事内容から推定できよう。昭和四十三年十月七日から同四十七年八月十日までの、各方面への陳情・要望、様々な会議結成・協力依頼等がなされていたことが知られるのである。

図3-49 激しかった国立医大誘致運動