浜松の地に医科大学が設立されんことを願うのは、浜松市民のみならず、開業医の医師らにも潜在しており、本書記述への導入を果たす目的で、浜松医科大学の第一回卒業式の式典に際して、浜松市医師会長内田智康が述べた祝辞を紹介しておいた(第二章第八節第一項「浜松医界百年のマグマ」参照)。
【国立浜松医科大学開学】
すなわち、昭和五十五年三月二十六日に挙行された卒業式において、浜松の地に医科大学が存在するに至ったことの歴史的意義を説いたのである。それは明治九年、静岡県に併合されて浜松県が消滅し、同十三年、浜松医学校は廃校となった。昭和四十九年六月七日に国立浜松医科大学が開学され、まさに浜松医学校廃校後の百年という節目に、浜松医科大学の卒業生が誕生したという喜びであった。
地方都市である浜松の地に医科大学が存在し、深化する医療を開業医が身近なものとして認識できることは、医師会の各科会とは別に、卒後教育・生涯教育として位置付けられる最新の知見に接する機会も多くなるということであろう。
【藤枝静男】
また、眼科の開業医の一人として、生前、勝見次郎(明治四十一年―平成五年)は浜松で診療し、同時に彼は私小説作家を標榜して小説や随筆を発表してきた藤枝静男であるが、医科大学の存在をどのように見ていたのか。
昭和四十八年に刊行された雑誌『医療と人間』(一九七三春Ⅰ)に藤枝静男の随想が掲載されている(『浜松市医師会中央病院記念誌』所収、昭和四十九年六月十一日刊)。そこに開業医としての医科大学待望論を見ることが出来よう。管見では『藤枝静男著作集』や単行本には、この随想が収められていないようである。
その冒頭で「私は昭和45年の大晦日付けで廃業届を出して30余年の診療生活に終止符をうった。」と筆を起こし、「いい後継者にめぐまれた」幸運とは別に、「自分が如何にくだらない開業医になり果ててしまったかという反省と悔恨の思いがあってそれに悩まされ続けていたからでもあった。じっさい開業医というものは、特に大学を持たない地方開業医というものは、いったん開業してしまえば鉄の意志を持たないかぎり進歩は止まるのである。」と赤裸々に述べている。この自省が拠って来たるところは日常の診療活動に根差している。それには二点ある。
一つは、専門雑誌を読み、知識を実現するために診療器機を買い込む。そこから「ある程度の進歩が生まれ」る。複雑な症状と経過を持つ多数の患者を診る臨床医には概括的な知識は血肉化しない。また、検査方法が細分化複雑化する診療器具への対応は、開業医の経済・体力・時間を浸食し、諦念に向かわせる。
二つは、内科の開業医には患者の入院退院に際して、患者に対する診察歴の継ぎ目がスムーズに移動せず、一種の断絶期間が挟まる。
この二つを満足させる条件として、開業医では設備できない検査・治療の病院を共有し、運営するオープンシステムの病院を実現させること、すなわち、これが医師会中央病院の設立であった。この「要望が期せずして生まれたについては、医科大学を持たぬ地方中都市という土地がらと、それから戦後十年という特別な時期が大きく作用していた」と藤枝静男は分析している。他方、医師会中央病院が負っている現今のマイナス条件は、「わが国の現状では医療法・健保制度がオープン制を全く無視している」ということである。それ故に開業医にかかる経済的・時間的ロスという「二つの欠点は、地域医療を担当し向上させようと努力している開業医にとって大なる悩み」であり、この克服のために医師会中央病院を引き継ぐ公設民営の県西部浜松医療センターが構想され、昭和四十八年四月に発足することになったと記している。右は医科大学を持たない地方都市の開業医として、期待して実現できた方式である。まして、県西部浜松医療センターが模索されている背景には、誘致する医科大学の教育病院とする試案が進行中であったからである。直接間接であれ、例えば藤枝静男のように様々な立場の者が医科大学誘致に向けて「石積み」をしていたのである。