[長谷川保のホスピス構想]

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【新居昭紀】
 『浜松市医師会史』(平成八年三月刊)には、市内各病院の創設・発展・現状の歴史記事が収載されているが、「聖隷三方原病院」については、昭和五年から平成四年までの歴代病院長の、それぞれの時代を画期とする内容であり、第六代病院長新居昭紀が執筆している。
 初め愛耕園として出発し、昭和十七年に財団法人聖隷保養農園(初代理事長渡邊兼四郎)、昭和二十七年に社会福祉法人聖隷保養園(初代理事長長谷川保)となり、昭和十七年設立の病院は生活保護法に基づく医療保護施設として認可されている。なお、昭和三十七年に住吉町に開設した聖隷浜松病院は、翌三十八年八月、聖隷病院から分離させ、他方、聖隷病院は昭和四十八年三月、聖隷三方原病院と改称している。昭和四十八年十二月には社会福祉法人聖隷保養園を社会福祉法人聖隷福祉事業団と改称し、長谷川保が理事長に就任した。
 
【関口一雄 ホスピス】
 昭和五十三年十一月十日付で聖隷三方原病院の四代病院長関口一雄は常任役員宛てに「ホスピス構想についての当院における検討結果について」と題した通達を出した。それは昭和五十三年十月二十七日の常任役員会において理事長提案であるホスピス構想を、聖隷五十周年記念事業の計画として位置付ける案であった。これを受けて十一月二日、理事長の出席の下に「当院管理会議」においてその構想が検討されている。
 先の通達のなかでのホスピスについて、「現在におけるホスピスとは末期患者のために死のケアーを行うことが出来る病院」と位置付けている。これはもとよりホスピスの発生は中世ヨーロッパの修道院に始まり、貧窮者・巡礼者・旅行者を救済する施設を意味するものであったが、近年では右の通達に定義されたように、治療による回復が絶望的になった末期ガン患者の救済、すなわち肉体的精神的苦悩を癒やし、支え助ける場所として理解されている。
 
【長谷川保 齊藤武】
 右の『浜松市医師会史』には新居昭紀が、疾病構造が変化しガンによる死亡が増加する中で、「何とか最期の瞬間まで人間としての尊厳を保ち、充実した人生を送れるように」とする長谷川保の理念を記しているが、右のごときホスピスを日本で最初に誕生させるに至る伏線は、長谷川保が昭和五十年八月、太平洋日米クリスチャン大会でのアメリカ伝道の際、アメリカの医療福祉事情を視察し、スタンフォード大学医学部付属病院チャプレンであった齊藤武牧師と対話したところにある(『老人福祉研究』第六巻、昭和五十六年七月刊)。
 
【岡部健 臨床宗教師】
 欧米の軍隊や病院では、兵士や患者の多様な出自、多様な宗教宗派が前提にあり、生者は言うまでもなく、死を前にした本人、あるいはその家族と向き合う宗教者(チャプレン)が配属されている。チャプレンは人の死の現場に臨む心構えを有し、それを養成する継続的、専門的な研修を受けている。それ故チャプレンの社会的役割が認められ、軍隊や病院で患者に対応することが許されているのである。宗教宗派を超えたチャプレンはプロテスタントにおける呼称の牧師と同じではない。これに日本語の訳語を与えるならば、故岡部健医師が言う臨床宗教師であろうか。
 昭和五十三年十一月六日の管理会議においては、「ホスピスの意義について」「ホスピス建設に関する今後の進め方について」を議題として意見交換が行われた。この会議で議論されたことをまとめた結論はホスピス是認論を前提に、いかに実施するかという点において現代医療の現状に伏在する問題が現れていた。