【清水みのる 『わが浜名湖』】
作詞家清水みのるの経歴等については、『浜松市史』四 第二章第九節第六項において既に見てきた。清水みのる詩集『わが浜名湖』の刊行は昭和五十年三月。発行所は(株)旅行読売出版社。本の形はほぼ正方形で、縦十八センチメートル、横十五・五センチメートル。百八十五頁。序詩「夕景の中で」のほか四十二編の詩を収める。序詩の前に、サトウハチローの詩「親友 清水みのるのひとがらと詩を唄う」がある。清水の「あとがき」によれば、サトウの詩は、清水の最初の作品集(L・P)が出る時、祝詩として執筆してくれたものという。四十五行にわたるこの詩の最初の数行を引用しておく。
清水みのるは / 山の上から流れてくる / 美しい水みたいな男です / 土砂を押しながし / 木の根を掘り / 笹やぶをなぎ倒して / 大きな河になろうなんてしない男です
清水とサトウとの交流には極めてこまやかなものがあり、清水は「あとがき」の中で「先輩」と呼んでいる。そのサトウが、この詩集作成に取り組んでいるさなかの昭和四十八年に急死する。清水は強い衝撃を受けながらも詩集作りは続けられた。こうして出来上がった詩集の扉には「わが亡き先輩 サトウハチロー氏の霊前に―この詩集を捧げる―」の言葉が記されている。
詩集は次の五章より成る。
○風景の接点・三題(三編) ○風景のバラード(十一編) ○季節のバラード(十四編)
○思い出は遠く懐しく(八編) ○私の青写真―サイクリング・ロードへの夢―(六編)
集の初め数頁には、弁天島夜景、姫街道、霧の猪鼻湖、越冬つばめなどのカラー写真、また、本文中には幾枚かの写真と手描きの地図が添えられていて親しみやすい。清水は「あとがき」の中で、この集作成の動機を記しているが、文中に「湖郷」なる言葉が見え、清水の故郷へ寄せる思いは即浜名湖へ寄せる思いであったことが知られる。『わが浜名湖』から詩「ハーモニカ少年」一編を掲出しておく。
ハーモニカ少年
ハーモニカを吹く
小学校前の橋の上で吹く
浜名湖の夕日に向って吹く
得意になって吹く
(中略)
ハーモニカを吹く
飽きもしないで毎日吹く
浜名湖中にひびけと吹く
胸を張って十三歳の春を吹く
図3-52 清水みのる詩集『わが浜名湖』
【原田喬 『椎』】
図3-53 『椎』創刊号
原田濱人の子息、原田喬によって俳句雑誌『椎』が創刊されたのは昭和五十年九月のことである。喬は濱人の子であると同時に俳句においては濱人の門下で、父亡き後も句誌『みづうみ』に所属していた。そういう中での新しい句誌創刊という喬の行動は、はた目には奇異にも見えるが彼としては確固たる信念に基づいた行動であった。「創刊のことば」には次のようにある。
私はもう一度俳句を初めからやりなおす決意を固め、自ら師と選んだ楸邨につき学び今日まで十八年を経過しました。私は「寒雷」での長い年月のなかで、父浜人に学び得なかった多くを学ぶことができました。
楸邨は加藤楸邨で、水原秋桜子門下の「馬酔木」同人(後に同誌を離れる)。石田波郷・中村草田男とともに「人間探求派」と呼ばれる。『みづうみ』に属しつつ楸邨に学んでいた喬(昭和三十二年寒雷入会、三十九年同人)の句風は、父濱人の「物心一如」の句風とは大きく異なっていた。濱人が亡くなって満三年、喬の周囲には句会を通じて志を同じくする人々が集っていた。一方、『みづうみ』では大橋葉蘭が後継者に決まっていた。そういう状況の中で、『椎』は生まれるべくして生まれたと言えるであろう。喬は「創刊のことば」の中で、『椎』の姿勢について次のように記している。
私たちは地方人としての素朴な自然観、人間観を基にしながら、次の三点を目標にすすみます。
感動の核心をつかむこと、表現を徹底的に追いつめること、絶えず学んで心を磨くこと、この三つです。
創刊号は発起人十八名、特別作品二名、椎集(会員作品欄)三十九名のスタートであった。『椎』はその後着実な歩みを続け、平成二十五年二月時点で第四百五十号を数えている。この間、平成十一年三月に主宰の原田喬が死去(八十六歳)。九鬼あきゑが後を継いだ。なお、原田喬には『落葉松』(昭和四十五年刊)、『伏流』(昭和五十六年刊)、『灘』(平成元年刊)、『長流』(平成十一年刊)の四句集。随筆集として『笛』(昭和四十九年刊)、『曳馬野雑記』(平成四年刊)がある。