[『未遂』の創刊]

771 ~ 773 / 1229ページ
【『未遂』 菅沼五十一】

図3-54 『未遂』創刊号

 この時期の散文を中心とする分野で注目すべき事柄として、文芸誌『未遂』の創刊がある。菅沼五十一(第二章第九節第一項に既出)を中心とする雑誌で、創刊は昭和五十二年五月。表紙を除いて九十四頁。奥付を見ると編集兼発行人菅沼五十一、発行所谷島屋書店、編集所未遂の会、定価五百円とある。作品は「創作」の見出しの下に六編、詩四編、随筆二編、ほかに小説と見るべきもの一編、自伝的な作品が一編、計十四編が収められている。誌名は、第三十号(十五周年記念号、平成四年一月刊)に掲載の「『未遂』と私」(安川澄江)によれば、稲勝正弘の提案によるという。
 創刊の年の昭和五十二年の『東海展望』七月号には「浜松で生れた本格的文芸誌 未遂」、同五十三年の同誌二月号には「未遂は本格派文芸誌狙う」なる見出しの下に、同誌創刊が取り上げられていて、地域の注目を集めていたことが分かる。同誌は平成十年までほぼ年二回刊行され、同十一年の刊行はなく、平成十二年一月第四十四号をもって終刊となったと見られる(終刊の辞はない)。全四十四冊、二十四年間続いたことになる。この間、第二十八号(平成二年十二月)から編集人が鈴木智之に代わっている。発行人は引き続き菅沼五十一であったが、平成七年八月、菅沼が亡くなってからは藤澤弘芳が発行人となっている。
 この雑誌を文芸誌として、どう評価すべきか、前記第三十号(十五周年記念号)に寄せられた吉田知子の「祝十五周年」という一文中に次のようにある。
 
  「未遂」のレベルは美童氏亡きあとはそう高いものとは思われなかった。原稿段階で手を入れたら傑作になるだろうと思われるものもあったし、せっかくのいい素材が途中で中断し、見捨てられたりするのは惜しかった。無駄な努力の大作もあった。
 
 文中の美童氏は、美童春彦(本名=山田治)。本業は精神科医で佐鳴湖病院院長。文学のほかに音楽、絵画をたしなむなど多彩な活動を見せていた浜松の代表的な文化人の一人であった。彼は創刊号に小説「ひとりあそび」を載せ、以後第二十三号まで毎号作品(小説)を寄せ続けた。また第二十四号までの表紙絵は彼の筆になるもので、亡くなる(平成元年一月)まで『未遂』のリーダー的存在であった。菅沼は『未遂』第二十五号(平成元年三月)に、追悼文「美童春彦さんさようなら」を寄せている。前述の吉田の文章には「悪くいえば金持ちの道楽であって、文学とは無関係のようにさえ思われた。」という言葉もあって、『未遂』に対して親近感と同時に純文学の立場からもどかしさをも抱いていたことが感じられる。とはいえ、『未遂』が浜松の文学・文化の分野において一定の存在感を示していたことは確かであったと言えるであろう。