社報

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【『日楽社報』】
 いわゆる「社報」と呼ばれる冊子の発行が盛んになるのは、昭和三十年代に入ってからである。社内誌は厳密には会社の活動内容や通知事項などを株主や社外の関係者に伝達する社報と企業内外の動向や社内の出来事などを社員に伝え、会社に対する意識を高揚させる社内報とに分けられるが、二本立てのところは少なく、両者を兼ねたものが大部分であったようである。『東海展望』の昭和三十四年二月号は、「社報拝見」という記事を載せており、その前置き部分に次のようにある。
 
  (前略)最近は社報ばやりである。また何処の町村でも月刊、季刊の別はあつても弘報または広報という名の町村だよりを発行している。(中略)いま浜松市内の工場事業場で定期的に社報を発行しているところは数社ある。既に百号を突破した日本楽器の豪華版、同じ楽器界で河合楽器、鈴木自動車工業、本田技研工業、そして遠州鉄道などである。
 
以下、遠州鉄道、本田技研工業、小田工芸社、河合楽器の四社の社報の詳細を伝えている。本田技研工業については、浜松製作所では所在地の町名をとって『葵弘報』を出し、東京本社では『ホンダ社報』という月報と不定期に『ホンダ便り家族版』を出しているとある。浜松市立中央図書館には、ここに挙げられたもののほかに当時の社内報として『トーセロ』(東京セロフアン紙株式会社)、『しょうだ』(庄田鉄工株式会社)などが保存されている。前記引用文中の日本楽器の『日楽社報』の創刊は古く、昭和二十二年十二月で、創刊号(タブロイド版四頁)の一面全部を使って社長川上嘉市の「社報発行に当つて」を掲げている。川上は、日本楽器にはかつて全従業員からなる樂友会という会があって、「樂友」という雑誌を出していたと記した後、次のように続けている。
 
  終戦後それらはすつかり無くなつてしまつて、会社の方針や社風の振興等に就て、従業員諸君に通ずる機関が無くなつた。今回社報を発行するようになつたのも、畢竟この欠陥を充たし、社の事情や方針等を一般に徹底し、共によき社風を作り、社業を振興し度いと云う微意に外ならない。
 
 社報の意義は、川上がここに述べていることに尽きると思われる。『しょうだ』の創刊号(昭和三十八年七月)の庄田和作社長、『社報まつびし』(株式会社松菱)の創刊号(昭和三十九年八月)の谷肇社長の言葉も表現は異なるが同趣旨を述べている。
 こうして、昭和三十年代以後、経済成長の波に乗って、各社とも社報の発行は盛んになってゆく。社内行事、人事などのほか社員の個人情報的な記事も掲載されている。昭和四十五年の『浜松商工時報』(十二月十一日発行、第三百二十五号)に、当時社内報を発行していた会社名と社報名の一覧があるが、そこにはこれまで取り上げたものを含めて二十九の社報名が記されており、いかに社内報が盛んであったかをうかがい知ることが出来る。
 しかし、やがて低成長の時代を迎えるとともに発行回数が減らされたり、さらには廃刊となった社報も多いようである。どの社報においても個人情報保護の重んぜられる昨今では、社員のその種の記事の掲載は控えられる傾向にある。

図3-58 『日楽社報』創刊号