浜松を「楽器のまちから音楽のまちに」という声は早くからあったようであるが、それが具体的な動きとなるのは昭和五十年頃のことである。敗戦後約三十年、決して早い動きではなかったがこの頃機は熟しつつあった。そうした中から市民の大きな期待を担って生まれたのが、アマチュアオーケストラの浜松交響楽団(以下、浜響)である。浜響が誕生するに当たって浜松青年会議所(浜松JC)の果たした役割は極めて大きい。浜松JCの熱意と献身的な努力なしには、浜響の誕生はありえなかったと言っても過言ではない。昭和五十一年十月(十二日~十八日)、JCの全国大会が浜松で開催され、浜響はこの大会を機に生まれたのである。浜松市立中央図書館に『浜松交響楽団10年の歩み』(昭和六十一年三月、浜響発行)という冊子が保存されているが、中に座談会「浜響を支えて10年」が載せられている。出席者は浜響発足当時の浜松JCの会員である。その一人平野新太郎は次のように発言している。
基本的に全国大会では、開催地に何かを記念事業として残すことになつています。それは必ずそこの地域住民のニーズに応えたものでなければなりません。そして全国から集つてくる何千人もの会員が協力して作り上げたという性格のものであれば更に良いわけです。この考え方からすれば、浜松にオーケストラが出来るというのは、誰からみてもふさわしい感じのものでした。
【白柳昇二】
前年の昭和五十年十一月から始められた浜松JCによる交響楽団設立の活動は翌年一月から本格化し、交響楽団発起人準備会、同幹事会、発起人会が次々に開かれた。団員募集が始まり二月にはメンバー百一名が決定。三月には団員総会を経て練習が始まった。この間に音楽監督兼主席指揮者として、静岡大学教授の白柳昇二が決定し、六月十三日、浜松市民会館において設立総会が開かれ浜響は正式に誕生した。こうして、十月のJC全国大会となり、十五日、日本青年会議所全国大会記念演奏会、翌十六日、第一回定期演奏会が開かれた。白柳昇二の指揮により次の曲目が演奏された。
・ワーグナー 「ニュルンベルグの名歌手」前奏曲 ・シューベルト 交響曲第八番「未完成」
・ベートーベン 交響曲第五番「運命」 ・シュトラウス ラデッキー行進曲(アンコール曲)
十五日の初演には、常陸宮ご夫妻のご臨席があった。十七日付の『静岡新聞』は「大成功の初演奏 浜響、これからが〝本番〟」という見出しの下にこの演奏会のことを報じている。
こうして華々しくスタートした浜響ではあったが、基盤をより強固なものとするべく法人化を目指すこととなり、関係者の奔走によって財団法人浜松交響楽団が設立されたのは昭和五十三年のことである。理事(十一人)、評議員(三十人)ほかの役員が決まり、理事長には宮澤廣が就任した。名誉顧問として平山博三浜松市長が迎えられた。この時の設立趣意書には、目的として次の六ケ条が示されている。
一.芸術、文化の普及向上 一.地域社会に於ける健全な音楽活動の場の提供
一.情操教育の普及推進 一.関係機関、団体との連携、友好の促進
一.演奏技術を高め、より良い音楽の提供 一.政治的かつ宗教的な片よりからの独立
浜響の設立と同時に後援会がスタートしており、また浜松JCには二年目より浜響委員会というものが設けられ楽団を支援し続けた。以後三十余年、浜響は「楽器のまちを音楽のまちに」のスローガンの下に、浜松市の音楽文化振興に大きく寄与し続けてきた。その功績は社会的にも認められ、平成十二年度にはサントリー地域文化賞、静岡県知事表彰、NHKあけぼの賞を受賞している。
図3-60 「浜松交響楽団記念演奏会」プログラム