[浜松音楽文化連盟の誕生]

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【浜松音楽文化連盟】
 これまで、浜松の音楽のまちづくりの様々な動きを見てきたが、その動きの中から生まれた組織が浜松音楽文化連盟(略称、音文連)である。音文連が、創立十五周年を迎えたのは、平成五年のことで記念誌『浜松音楽文化連盟15年のあゆみ』が作成されている。B5判、五十頁、写真も少なく一見地味な冊子ではあるが、内容がしっかりしており貴重な資料である。この中に、顧問の川口尋之執筆の「『浜松音楽文化連盟』設立の経緯」という一文がある。川口は、連盟発足時の会長(当時、浜松合唱連盟理事長)であった。これによると設立のいきさつは以下の通りとなる。
 
【浜松市芸術祭】
 浜松市芸術祭が始まったのは、昭和三十年のことであるが、この行事の中心的役割を果たしてきたのは浜松合唱連盟であった。昭和五十一年度、第二十二回芸術祭が開催されたが、この時、合唱連盟理事長であった川口尋之の尽力により、音楽部門に合唱のほかに器楽団体が参加することになった。このような背景の下に、昭和五十三年十一月頃から、各音楽団体一本化の動きが起こり、発起人会を経て浜松市音楽文化連盟(後に浜松音楽文化連盟)が発足する。昭和五十四年五月二十日のことである。加盟したのは合唱、管弦楽、室内楽、吹奏楽、ギター・マンドリン、ジャズ、邦楽の七部門と一協会で二十団体であった。一協会というのは浜松三曲協会のことであるが、事情により四年後に退会している。代わりに琵琶楽と津軽三味線のそれぞれ一団体ずつが参加した。会長には川口尋之が、名誉会長には栗原勝浜松市長が就任した。
 
【音楽祭】
 発足した音文連と、浜松市民音楽祭実行委員会の主催による第一回音楽祭の開かれたのは、翌昭和五十五年二月のことである。次の二つに分けて市民会館を会場に開催された。
 
・第一部(二月 二日) コーラス・マンドリン・オーケストラの夕べ
・第二部(二月十七日) 〈第一部〉琵琶と三曲の調べ 〈第二部〉ブラスとジャズの夕べ
 
 この音楽祭は以後毎年開かれ今日まで続いている。三十一回目となる平成二十四年は四月二十九日開催で、『中日新聞』(四月三十日付)は十一団体二百五十人が参加したと伝えている。
 会場としては昭和五十八年三月までは浜松市民会館、その後平成八年までは主として浜松市勤労会館、平成九年の第十六回からはアクトシティ中ホールが使われている。