平成十年(四月一日)から同十一年(八月十一日)にかけて、『中日新聞』に連載された「遠州音楽百年」(執筆・鈴木直之、以下「百年」)は、この種の調査研究の少ない中で貴重な労作である。この「百年」の中で、筆者は静岡県下の中学校や高校では、昭和三十二年の静岡県下での国民体育大会をきっかけにバンドが編成され、スポーツと共に成長してきたとし、浜松地方のブラスバンドの水準が全国のトップレベルにあると記している。学校教育の場での吹奏楽団の成長については、教育の項で取り上げてあるのでここでは社会人によるバンドの活動状況を見ておきたい。
「百年」では、民間の社会人バンドとして、ヤマハ吹奏楽団、浜松交響吹奏楽団、天方吹奏楽団、浜松市民吹奏楽団の名前を挙げている。このほかにかつては河合楽器吹奏楽団があった。(社内報『カワイ』№183・195によれば、昭和二十九年結成、同三十四年解散。同五十年再結成。その後については不明)。また、これとは別に官公署関係には浜松市消防音楽隊、航空自衛隊の中部航空音楽隊がある。
【ヤマハ吹奏楽団】
まず、民間の社会人バンドであるが、何と言っても歴史が古く輝かしい実績を誇るヤマハ吹奏楽団を最初に取り上げる。同楽団はこれまでに楽団史として次の四冊を刊行している。
① 響を求めて―ヤマハ吹奏楽団20年史―(昭和五十六年刊)
② 響を求めてⅡ―ヤマハ吹奏楽団30年史―(平成三年刊)
③ 響を求めてⅢ―ヤマハ吹奏楽団40年史―(平成十四年刊)
④ 響を求めてⅣ―ヤマハ吹奏楽団50年史―(平成二十四年刊)
このうち、同楽団の創立時の様子を最もよく伝えているのは、①であり、多くの関係者が寄稿しているが、どの文章からも熱い思いが伝わって来て読み応えがある。①に所収の回想文「20年前を偲んで」の中で筆者の石神孝治は、「ヤマハ吹奏楽団を語る時、日本楽器硬式野球部との係わりを述べずしては通れません」と記している。社内の野球関係者の間から、河合との定期戦に備えて、河合楽器を抜くようなバンドを作りたいとの動きが起こり誕生したのがヤマハ吹奏楽団であった。昭和三十六年のことである。石神は、生まれた当時について「当時はまだバンドのユニホームもなく、汚れたまゝの作業服で応援に行った為に、不精ったい等とも云われ、お小言の連続であった。」とも記している。
野球の応援を目的として生まれたバンドであったが、これが演奏会も開けるバンドへと大きく変身するのは、昭和四十年になって、当時NHK交響楽団員だった原田元吉を常任指揮者として迎え入れてからのことである(原田は昭和五十八年まで、二十年近く同楽団の常任指揮者を務める)。①に所収の原田執筆の「定期演奏会をふりかえって」の中で、原田は「最初の仕事は、野球の応援を主体としていたバンドから、演奏会も開けるバンドにすることであった。」と記している。第1回定期演奏会が開かれたのは昭和四十一年四月六日のことであった。原田は同じ文章の中で「この第1回の定期演奏会は、バンド全体の技術的レベルアップと共に、ステージ演奏の出来るバンドへと、一歩前進したことによっても、大成功であった」としている。しかもこの年には、仙台市の宮城県民会館で行われた第14回全日本吹奏楽コンクール職場の部で、初出場にもかかわらず第一位の栄冠を手にした。これ以後の同楽団の活躍は目覚ましい。平成二十三年までに全日本吹奏楽コンクールにおける金賞受賞三十回(五年連続受賞が三度)はまさに前人未踏の記録である。平成二十三年現在のヤマハ吹奏楽団の常任指揮者は須川展也であるが、④に寄せた須川の言葉を引用して、同楽団に関する記述の締めくくりとしたい。須川は、楽団を「匠のバンド」と呼び次のように記している。
愛情をこめて楽器を作っている彼らの演奏ですから、彼らが出すすべての音にその愛情が表れていて、一緒に演奏しながら何度も何度も感動を頂いています。この匠たちが自分たちの作っている楽器で演奏する、世界で一つだけの日本が世界に誇る楽団だと思います。
【河合楽器吹奏楽団 天方吹奏楽団 浜松交響吹奏楽団】
当地方における、民間企業による吹奏楽団としては、既に記したように、ヤマハよりも先に誕生し活躍していた河合楽器吹奏楽団があったが現在は活動が見られない。このほかには、平成二年天方産業グループ内に創設された天方吹奏楽団があり、定期演奏会、プロムナードコンサート、各種イベントへの出演など幅広く活動している。このほか、一企業に限らず一般社会人を団員とする吹奏楽団としては、昭和四十八年創設の浜松交響吹奏楽団、昭和五十年創設の浜松市民吹奏楽団などがあり活動を行っている。
【浜松市民吹奏楽団】
以上とは別に、浜松には取り上げるべき社会人バンドがある。航空自衛隊の中部航空音楽隊と浜松市消防音楽隊(以下、消防音楽隊)の二つである。
【中部航空音楽隊】
中部航空音楽隊が浜松南基地に発足したのは昭和五十一年。航空自衛隊浜松南基地の広報紙『はまな』(昭和六十四年一月一日付)に同音楽隊が次のように紹介されている。
中部航空音楽隊は、昭和五十一年、中空司令官の直轄部隊として新編された。(前身は浜松音楽隊)主任務は、儀式、栄誉礼、隊員の士気振作及び広報宣伝のための音楽演奏である。三十七名の隊員達は自衛官としての各種訓練をこなしながら、プロの演奏家としてより秀れた合奏を目指して、音の追求に励んでいる。
文中の浜松音楽隊の発足は昭和三十八年の二月で、そのいきさつと存続の危ぶまれた厳しい状況については、浜松北基地の広報紙『三方原』(昭和四十二年三月一日付)の記事「音楽隊始末記」に詳しい。以後、中部航空音楽隊は充実した演奏活動を続け、平成十八年十月一日に創設三十周年を迎えている。
【浜松市消防音楽隊】
浜松市消防音楽隊の誕生は昭和四十五年である。同音楽隊は、平成二十三年二月二十六日、発足四十周年を記念して、アクトシティ浜松大ホールにおいて「119ふれあいフェアー浜松市消防音楽隊第15回定期演奏会」を開いた。この時のパンフレットに添えられた同音楽隊の沿革を見ると、発足に当たっては浜松ライオンズクラブからの楽器の寄贈があったことが知られる。浜松に在住し、全国的に知られる吹奏楽の指導者遠山詠一(本名=栄一)が、同音楽隊の講師に迎えられたのは平成五年のことである。平成十六年には、カラーガード隊〝ドリームフラッグス119〟が結成され、さわやかな演技で音楽隊の演奏に彩りを添えている。